てんとう虫 ~神様や聖母の虫2015-03-14 23:47:51

 まだ寒いとは言え、啓蟄が過ぎて、てんとう虫も這い出る季節となりました。

 1998年3月号のNational Geographic誌(http://tbbird.asablo.jp/blog/2015/01/12/7536653)を手に取ると、小檜山賢二さんの「虫をめぐるデジタルな冒険」でナミテントウを取り上げ、「英語名"Lady Bird"(聖母の鳥)。はたして、その名前の由来は、なに?」と書いてあります。

 「世界中で愛されている昆虫なのである。何故好かれるのかを考えてみた。まず、半球のような体型がかわいい。そして大きさもちょうど良い。気がつかないほど小さくはなく、威圧感を受けるほど大きくない。次は色、赤を基調とした色は、緑の多い自然環境ではよく目立つ。こちょこちょと上の方に登り、その頂点に達するとやおら鞘翅を開いてから飛び立つ動作もかわいい。lady bird(聖母の鳥)の名はその様子からつけられたのだそうだ。」
 私にはよくわかりません。
 ladyはこのままの形で所有格を示し、(our) Lady's birdという意味で、聖母マリアの鳥と訳すのは正しいですが、飛び立つその様子と聖母マリアにどういう関係するかは、結局よくわからずじまいでした。


 和名の「てんとう虫」は、「天道虫」であり、ウィキペディアによると、「和名の由来は太陽に向かって飛んで行くことから、太陽神の天道からとられた。」です。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%A6%E3%83%A0%E3%82%B7
 てんとう虫は太陽に向かって飛ぶのでしょうか?怪しい解説です。
 古い辞書を開くと、「天道虫というのは俗称で、本名はひさごむし、ひさごなどにとまっているからであろう。」とあります。
 本名というのも変ですが、ひさごむしという名前は、あまり聞かなくなっていますね。

 フランス語では「Coccinellidae」という正式名称のほか、俗に「bêtes à bon Dieu」とも言います。
 人々は神様のことを口にするとき、le bon Dieu(慈悲深い神様)と言いますので、bêtes à bon Dieuは、つまり「神様の虫」です。手元の「フランス語博物誌 <動物編>」(中平解、八坂書房)によれば、「bête à Martin(マルタンの虫)」とも言うそうです。Martinとは聖マルタン、昔のフランスでは、庶民の間でもっとも人気のある聖人だそうです。

 ウィキペディアのドイツ語版も見てみましたが、「Marienkäfer」という名前で、「Marien」は「マリア様の」ですから、「マリア様の甲虫」、という意味になるのではないでしょうか。
 英語でも「ladybird」のほか、「ladybug」や「lady fly」などと呼ぶことがあるようです。

 で、てんとう虫と聖母マリアにどういう関係があるか、の話に戻りますが、「英語歳時記 夏」(成田成寿、研究社出版)によれば、「中世に聖母マリアに献納されたことに由来するといわれており、欧米ではしばしば縁起の良い虫と考えられることがある。」とあります。

 「英米故事伝説辞典」(井上義昌、冨山房)を調べたら、「どうしてこの虫が神様や聖母の虫であって、幸運のお守りになるかは、日本ではそれを使いながら理由を知らないようである。」と書いてから、ある昔話を記しています。
 原文はやや長いですが、概略だけ言えば、殿様の若い弟を殺した側用人により、ある若い農夫が濡れ衣を着せられました。死刑に処される前の神様へのお祈りのとき、つぶされそうになる赤いてんとう虫をそっと助けた農夫を見て、殿様はふっと思い直し、そして再審問の結果、証拠の数々は悪い側用人が仕掛けたものだとわかって、「農夫の首のために用意された縄は、側用人の首を絞めた」、となりました。
 「『皆の者、よく聞け。このさばきはわがさばきに似てわがさばきにあらず、ひとえにあるの小さな虫のおかげである。あの虫こそは、勧善懲悪のために神様がおつかわしになったものに違いない。天にまします神様こそ栄えあれ、アーメン』。これが西洋の伝説、「天道虫縁起」である。 (渡辺(紳)、東峰書院、「西洋古典語典」)」


 中国語ではてんとう虫のことを、「瓢蟲」と言ったり、「金龜子」と言ったり、「紅娘」だと言ったりします。漢籍上、西洋諸国のような、神様との結びつきを示すものを、私は聞いたことがありません。

 日本では戦国時代になって、キリシタンが昔からある「天道」という言葉を採用して、エホバのことを「てんとう」と言っていました。
 ひさご虫だと呼ばれたこの虫を、てんとう虫だと呼ぶようなったのは、キリシタンの影響ではないかと、私も思います。

【レース回顧】 2015スプリングステークス2015-03-22 23:05:17

 スローペースで物足りない、という声も聞こえてきそうですが、レースには迫力がありました。
 クラシック本番に向けてのトライアルはいくつもあって、近年の傾向通り、本番までは有力馬が分散していますが、今年の場合、このスプリングステータスが一番レベルが高かったような気がします。

 それだけに、重賞初挑戦で無キズの3連勝を飾ったキタサンブラックは、価値の高い勝利だったと言えます。跳びの大きいストライドは、多頭数の本番でごちゃつく際に心配がなお残りますが、今日のペースで折り合えたセンスの良さなら、杞憂に終わる可能性が高いです。
 このまま無事なら、オーナーの北島三郎さんの「まつり」が、皐月賞の日で聞けるかも知れません。

 負けて強しなのは、2着に入った人気馬のリアルスティールです。ゴール前では一瞬、届いてしまうかも、と思ったほどの、迫力のある差し脚でした。
 休み明けで3着になった2歳チャンピオンのダノンプラチナ、やはり京成杯以来でちょっと間隔があった4着のベルーフなども、それぞれ本番に向けての見せ場があり、希望が残りました。

 もちろん、無敗の弥生賞馬サトノクラウンなど、他路線組からも強力なチャレンジャーが出てくるし、本番が楽しみになりました。

横浜外国人墓地紳士録(1) ~チャールズ・ワーグマン2015-03-25 00:22:40

 明治31年の主婦の日記に、「ポンチ絵」という言葉が登場したのを、私がここで書きました(http://tbbird.asablo.jp/blog/2013/12/27/7159520)が、まんが風の絵を指す「ポンチ絵」という言葉は、どうやら日本最初の漫画雑誌「ジャパン・パンチ」に由来するそうです。

 「ジャパン・パンチ」は、幕末期に記者として来日したチャールズ・ワーグマン(Charles W」irgman)が、イギリスの風刺漫画雑誌「パンチ」を模して、1862年(文久元年)に創刊したものです。
 というようなことを、ウィキペディアでチャールズ・ワーグマンを探した際に知りました。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%B3


 チャールズ・ワーグマンのことが気になったのは、手元の「根岸の森の物語 ~競馬は横浜で生まれ育った」(馬の博物館編、神奈川新聞社かなしん出版)に氏が紹介されているからで、「ジャパン・パンチ」には根岸競馬の漫画が50点以上掲載されたようです。

 「ジャパン・パンチ」だけでなく、チャールズ・ワーグマンは元々ロンドンで発行されている「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」の特派記者兼挿絵画家として来日したもので、「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」でも日本の競馬草創期について描いていました。
 例えば、1865年7月8日付の同紙に、英国駐屯軍の練兵場で開催された英第20連隊の駐屯軍競馬に関する記事が掲載されていました。英国駐屯軍の練兵場は、いまの「港の見える丘公園」から神奈川近代文学館のある丘を控えた中区諏訪町一帯にあると言われています。この駐屯軍競馬で、「今回は初めて、日本の役人が参加した。...(中略)...それらの日本人騎乗紳士らのうちの二人は振り落とされたが、彼らのなかなか勇敢で、夕方には別のレースに出て見事に乗りこなしました。」
 チャールズ・ワーグマンによるスケッチには、羽織、はかま、丁髷姿のサムライたち8人が馬に乗って一斉にスタートした様子が描かれています。
 この武士招待競走のことは、「ジャパン・ヘラルド」にも、「この日の呼び物レースでもあったが、素晴らしい競馬だった。」と記しています。

 このとき、チャールズ・ワーグマンはすでに日本人女性の小沢カネと結婚し、長男の一郎も誕生していました。
 ウィキペディアの記載によれば、1867年、ハリー・パークスやアーネスト・サトウに伴い、徳川慶喜との会見に臨むため大坂に赴き、慶喜の肖像画も描いたそうです。


 チャールズ・ワーグマンは58歳、横浜で死去し、いまも横浜外国人墓地で眠っています。

横浜外国人墓地紳士録(2) ~エドウィン・ホイラー2015-03-29 13:31:22

.
 ラグビーのワールドカップは今年、イングランドで開催予定ですが、4年後の次回のワールドカップは、日本での開催が決まっています。

 1899年(明治32年)、慶応義塾大学予科の講師として就任したイギリス人エドワード・ブラムウェル・クラークが、田中銀之助の協力のもと、塾生たちに指導したことが、日本におけるラグビーの歴史の幕開けだとされることが多いです。
 しかし、その三十数年前に、すでに"Yokohama Foot Ball Club"が成立していたそうです。
 The Japan Timesの記事によれば、Yokohama Foot Ball Clubができた1866年から数えるなら、ラグビー発祥国のイギリス、およびその植民地であったオーストラリア等を除けば、世界ではもっとも古く、伝統的なラグビー強豪国であるフランス、ニュージランドや南アフリカよりも、歴史が長いことになります。(http://www.japantimes.co.jp/life/2014/03/15/lifestyle/1866-and-all-that-the-untold-early-history-of-rugby-in-japan/#.VRdl1GccSUk

 草創期のYokohama Foot Ball Clubのメンバーが一部紹介されていますが、このなか、個人的に気になる名前が見えます。
 「Other rugby players included the three Dare brothers (George, John Julius and Alfred), Irishman Dr. Edwin Wheeler, H.J. Abell, Capt. Arthur Hill, George Melhuish, and the consular officials John Gubbins and Joseph Longford.」


 ドクター・ホイラーことEdwin Wheelerは、日本の近代競馬の草創期を語る上で、最も重要な人物のひとりです。

 手元の「文明開化うま物語 ~根岸競馬と居留外国人」(早坂昇治、有隣新書)によれば、ホイラー氏は1841年、アイルランドに生まれ、1870年1月にイギリスの士官(軍医)として来日しました。はじめはイギリス公使館付医師として勤務し、その後工部省鉄道医となり、後に一般医院の医師として十全病院、横浜中央病院や神奈川衛生部などの仕事も手掛け、開業もしたそうです。
 氏が取り上げた赤ちゃんは千人を超え、居留外国人の間では特に厚い信頼と尊敬を集めていました。

 ラグビーの横浜フットボール・クラブの話もそうですが、ホイラー氏はスポーツ万能だったようです。若いときはヨットが好きで、乗馬も大変得意であり、1871年新潟語学所でキング教師が襲われて負傷した際は、自ら馬を飛ばして84時間で現場に着いたそうです。のちに、横浜クリケット・クラブやアスレチック・クラブなどに関係し、その会員や役員を務めたそうです。 (奥さんのMary Wheelerも、レディース・ ローン・テニス・アンド・クロッケー・クラブの初代会長になっていた模様。)

 競馬については、少なくともホイラー氏は1882年から日本レース・クラブの委員になり、「ジャパン・ガゼット50年史」によると副会頭も15年間勤め、根岸競馬では長年、体重検査室の責任者になっていました。
 ウィキペディアの「招魂社競馬」の項(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%9B%E9%AD%82%E7%A4%BE%E7%AB%B6%E9%A6%AC#.E7.AB.8B.E5.B7.9D2008)に、「横浜根岸競馬で1871年(明治4年)から1879年まで活躍したタイフーン号は招魂社競馬を観戦していたイギリス公使館付医師E.Wheelerが見出し購入したという。」なる記述がありますが、このE.Wheelerは、まさにホイラー氏です。
 ターフーン号とともに写した写真が「ファー・イースト」に掲載され、初期の競走馬の面影を現在に伝える貴重な資料となっています。

 1908年、ホイラー氏は、地方自治体への長年の功績により、政府から勲三等瑞宝章と銀製の茶器が贈られました。
 1923年、82歳のとき、関東大震災に遭い、谷戸坂上で力尽き、亡くなったそうです。震災を伝える海外の新聞に、その名前を見えます。(http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/1987190

 上の写真にあるホイラー氏のお墓は、横浜外国人墓地16区にあるようです。