横浜外国人墓地紳士録(2) ~エドウィン・ホイラー2015-03-29 13:31:22

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 ラグビーのワールドカップは今年、イングランドで開催予定ですが、4年後の次回のワールドカップは、日本での開催が決まっています。

 1899年(明治32年)、慶応義塾大学予科の講師として就任したイギリス人エドワード・ブラムウェル・クラークが、田中銀之助の協力のもと、塾生たちに指導したことが、日本におけるラグビーの歴史の幕開けだとされることが多いです。
 しかし、その三十数年前に、すでに"Yokohama Foot Ball Club"が成立していたそうです。
 The Japan Timesの記事によれば、Yokohama Foot Ball Clubができた1866年から数えるなら、ラグビー発祥国のイギリス、およびその植民地であったオーストラリア等を除けば、世界ではもっとも古く、伝統的なラグビー強豪国であるフランス、ニュージランドや南アフリカよりも、歴史が長いことになります。(http://www.japantimes.co.jp/life/2014/03/15/lifestyle/1866-and-all-that-the-untold-early-history-of-rugby-in-japan/#.VRdl1GccSUk

 草創期のYokohama Foot Ball Clubのメンバーが一部紹介されていますが、このなか、個人的に気になる名前が見えます。
 「Other rugby players included the three Dare brothers (George, John Julius and Alfred), Irishman Dr. Edwin Wheeler, H.J. Abell, Capt. Arthur Hill, George Melhuish, and the consular officials John Gubbins and Joseph Longford.」


 ドクター・ホイラーことEdwin Wheelerは、日本の近代競馬の草創期を語る上で、最も重要な人物のひとりです。

 手元の「文明開化うま物語 ~根岸競馬と居留外国人」(早坂昇治、有隣新書)によれば、ホイラー氏は1841年、アイルランドに生まれ、1870年1月にイギリスの士官(軍医)として来日しました。はじめはイギリス公使館付医師として勤務し、その後工部省鉄道医となり、後に一般医院の医師として十全病院、横浜中央病院や神奈川衛生部などの仕事も手掛け、開業もしたそうです。
 氏が取り上げた赤ちゃんは千人を超え、居留外国人の間では特に厚い信頼と尊敬を集めていました。

 ラグビーの横浜フットボール・クラブの話もそうですが、ホイラー氏はスポーツ万能だったようです。若いときはヨットが好きで、乗馬も大変得意であり、1871年新潟語学所でキング教師が襲われて負傷した際は、自ら馬を飛ばして84時間で現場に着いたそうです。のちに、横浜クリケット・クラブやアスレチック・クラブなどに関係し、その会員や役員を務めたそうです。 (奥さんのMary Wheelerも、レディース・ ローン・テニス・アンド・クロッケー・クラブの初代会長になっていた模様。)

 競馬については、少なくともホイラー氏は1882年から日本レース・クラブの委員になり、「ジャパン・ガゼット50年史」によると副会頭も15年間勤め、根岸競馬では長年、体重検査室の責任者になっていました。
 ウィキペディアの「招魂社競馬」の項(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%9B%E9%AD%82%E7%A4%BE%E7%AB%B6%E9%A6%AC#.E7.AB.8B.E5.B7.9D2008)に、「横浜根岸競馬で1871年(明治4年)から1879年まで活躍したタイフーン号は招魂社競馬を観戦していたイギリス公使館付医師E.Wheelerが見出し購入したという。」なる記述がありますが、このE.Wheelerは、まさにホイラー氏です。
 ターフーン号とともに写した写真が「ファー・イースト」に掲載され、初期の競走馬の面影を現在に伝える貴重な資料となっています。

 1908年、ホイラー氏は、地方自治体への長年の功績により、政府から勲三等瑞宝章と銀製の茶器が贈られました。
 1923年、82歳のとき、関東大震災に遭い、谷戸坂上で力尽き、亡くなったそうです。震災を伝える海外の新聞に、その名前を見えます。(http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/1987190

 上の写真にあるホイラー氏のお墓は、横浜外国人墓地16区にあるようです。