飛べない鳥は、ただの鳥肉? ― 2015-02-04 00:01:55
「私のプリニウス」(河出文庫)で、澁澤龍彦は「博物誌」の第十巻を引いています。
「鳥のなかでいちばん大きく、ほとんど四足獣の仲間に近いのは、アフリカおよびエティオピアの駝鳥である。騎馬の人間よりも背が高く、走ることにおいても馬より速い。翼も走るときにしか役に立たず、地上から飛びあがることはない。足は鹿の足に似ていて、戦うときに役に立つ。」
ダチョウが獣と鳥の中間的存在であるのは、古くアリストテレスも述べていたようです。
おもしろいことに、プリニウスの用いるラテン語では、ダチョウは「struthocamelus」と表記されていて、「camelus」は現代英語の「camel」に相当し、すなわちラクダです。中国語から伝来した「駝鳥」の「駝」も、やはり「駱駝」の「駝」であり、両者の関係は古くから中国にも伝わっていたかも知れません。
それにしても、「騎馬の人間よりも背が高く」とは、相当高いような気がします。いにしえのダチョウ類は、現存の種類より大きいから、かも知れません。
太古には、現生種よりはるかに大きな種が存在するのは、恐竜をはじめ、よく知られています。
飛べない鳥の親戚に関しては特に、わりと近世まで、巨大な種類が生息していたそうです。
「ドラえもん(のび太と奇跡の島)」にも出てくるジャイアントモアの仲間は、鳥類の中で最も背の高い鳥だと言われ、地面からの頭の高さが360cmに達するそうです。
去年の9月号の「Newton」が手元にあり、「空を捨てた鳥たち」と題する記事が掲載されています。
その記事によれば、マダカスカル島の「エピオルニス・マキシマス」という飛べない鳥は、ゾウのような太い足を持ちます。体重は450キロになると推定されていますが、これは西暦1600年頃に絶滅した種類です。
北大西洋に生息していた「オオウミガラス」は、体長が80センチメートルになるカラスの飛べない種類で、1844年に絶滅しました。
モーリシャス島の「ドードー」は、巨大なハトの仲間で、体長は最大で1メートルに達し、最も太る時期は20キロにもなるそうですが、人間の食料として狩られ、1681年に絶滅しました。
天敵のない楽園で飛ばなくても生存できることを学んだ鳥類たちは、大空と翼を捨てましたが、大航海時代に入ると、武器を持ったサルの仲間に出会ってしまい、次々と絶滅に追いやられてしまいました。
これも自然界の厳しさ、なのかも知れません。
「鳥のなかでいちばん大きく、ほとんど四足獣の仲間に近いのは、アフリカおよびエティオピアの駝鳥である。騎馬の人間よりも背が高く、走ることにおいても馬より速い。翼も走るときにしか役に立たず、地上から飛びあがることはない。足は鹿の足に似ていて、戦うときに役に立つ。」
ダチョウが獣と鳥の中間的存在であるのは、古くアリストテレスも述べていたようです。
おもしろいことに、プリニウスの用いるラテン語では、ダチョウは「struthocamelus」と表記されていて、「camelus」は現代英語の「camel」に相当し、すなわちラクダです。中国語から伝来した「駝鳥」の「駝」も、やはり「駱駝」の「駝」であり、両者の関係は古くから中国にも伝わっていたかも知れません。
それにしても、「騎馬の人間よりも背が高く」とは、相当高いような気がします。いにしえのダチョウ類は、現存の種類より大きいから、かも知れません。
太古には、現生種よりはるかに大きな種が存在するのは、恐竜をはじめ、よく知られています。
飛べない鳥の親戚に関しては特に、わりと近世まで、巨大な種類が生息していたそうです。
「ドラえもん(のび太と奇跡の島)」にも出てくるジャイアントモアの仲間は、鳥類の中で最も背の高い鳥だと言われ、地面からの頭の高さが360cmに達するそうです。
去年の9月号の「Newton」が手元にあり、「空を捨てた鳥たち」と題する記事が掲載されています。
その記事によれば、マダカスカル島の「エピオルニス・マキシマス」という飛べない鳥は、ゾウのような太い足を持ちます。体重は450キロになると推定されていますが、これは西暦1600年頃に絶滅した種類です。
北大西洋に生息していた「オオウミガラス」は、体長が80センチメートルになるカラスの飛べない種類で、1844年に絶滅しました。
モーリシャス島の「ドードー」は、巨大なハトの仲間で、体長は最大で1メートルに達し、最も太る時期は20キロにもなるそうですが、人間の食料として狩られ、1681年に絶滅しました。
天敵のない楽園で飛ばなくても生存できることを学んだ鳥類たちは、大空と翼を捨てましたが、大航海時代に入ると、武器を持ったサルの仲間に出会ってしまい、次々と絶滅に追いやられてしまいました。
これも自然界の厳しさ、なのかも知れません。
再びダチョウ、および非可逆な喩えについて ― 2015-02-08 16:36:23
駝鳥についてを書いた後、気になってちょっと調べてみたら、中国では唐代にも西の国々からしばしば献上されていたそうです。
「古今圖書集成」の「駝鳥部彙考」を見ると、「祖法児國山駝鶏」の項で、「鶏身如鶴 長三四尺 脚二指 毛如駝 行亦如駝 故喚駝鶏」と記されています。
「集解」では、「陳藏器曰 駝鳥如駝 生西戎 高宗永徽中吐火羅獻之 高七尺 足如橐駝 鼓翅而行日三百里 食銅鐵也」ともあります。
毛がラクダに似ているとか、足がラクダに似ているとか、いろいろとラクダとの関連を伝えていますが、やがてこの鳥の実物の姿が、中国の人々の目から、記憶から消えていきました。
そして、駝鳥という鳥の姿を、絵師たちは、残された文字情報から再現しなければならない事態となりました。
日照東照宮の象のレリーフと同じです。(http://tbbird.asablo.jp/blog/2013/09/11/6977940)
アメリカの東洋学者Berthold Laufer(ベルトルイ・ラウファー)が書いた「Chinese Clay Figures」の128ページをぜひ見ておきたいです。
<http://www.rhinoresourcecenter.com/pdf_files/122/1225786358.pdf>
「古今圖書集成」の「駝鳥図」を取り上げていますが、翼を持った二本足のラクダのような、ほぼ怪物です。新発見の動物だと勘違いして、「Avi-camelus bipes(ニホンアシ・トリラクダ)」だと命名してはいけない、と作者は冗談ながら指摘しました。
その1ページ前の「草本綱目」の絵は、足のみをラクダに似る形に留めたところ、だいぶマシだと思いますが、やはり現実のダチョウとは似つかない姿です。そもそも横に「火鶏」の文字も見え、日本の江戸時代同様、七面鳥との混同があるように伺えます。
「詩経」に、美女の姿を描いている名文が残っています。
「手如柔荑,膚如凝脂,領如蝤蠐,齒如瓠犀,螓首蛾眉...」
「柔荑」は柔らかい草のようなもので、「凝脂」は固まった脂身です。「蝤蠐」は蚕の繭(まゆ)であるらしく、「瓠犀」はカボチャあるいはスイカの種を塩煎りした「瓜子」の類だと言われています。
これらのものから、美女の姿を復元できるかと言うと、やはり本物を目にしたことがないと、難しいのではないでしょうか?
「古今圖書集成」の「駝鳥部彙考」を見ると、「祖法児國山駝鶏」の項で、「鶏身如鶴 長三四尺 脚二指 毛如駝 行亦如駝 故喚駝鶏」と記されています。
「集解」では、「陳藏器曰 駝鳥如駝 生西戎 高宗永徽中吐火羅獻之 高七尺 足如橐駝 鼓翅而行日三百里 食銅鐵也」ともあります。
毛がラクダに似ているとか、足がラクダに似ているとか、いろいろとラクダとの関連を伝えていますが、やがてこの鳥の実物の姿が、中国の人々の目から、記憶から消えていきました。
そして、駝鳥という鳥の姿を、絵師たちは、残された文字情報から再現しなければならない事態となりました。
日照東照宮の象のレリーフと同じです。(http://tbbird.asablo.jp/blog/2013/09/11/6977940)
アメリカの東洋学者Berthold Laufer(ベルトルイ・ラウファー)が書いた「Chinese Clay Figures」の128ページをぜひ見ておきたいです。
<http://www.rhinoresourcecenter.com/pdf_files/122/1225786358.pdf>
「古今圖書集成」の「駝鳥図」を取り上げていますが、翼を持った二本足のラクダのような、ほぼ怪物です。新発見の動物だと勘違いして、「Avi-camelus bipes(ニホンアシ・トリラクダ)」だと命名してはいけない、と作者は冗談ながら指摘しました。
その1ページ前の「草本綱目」の絵は、足のみをラクダに似る形に留めたところ、だいぶマシだと思いますが、やはり現実のダチョウとは似つかない姿です。そもそも横に「火鶏」の文字も見え、日本の江戸時代同様、七面鳥との混同があるように伺えます。
「詩経」に、美女の姿を描いている名文が残っています。
「手如柔荑,膚如凝脂,領如蝤蠐,齒如瓠犀,螓首蛾眉...」
「柔荑」は柔らかい草のようなもので、「凝脂」は固まった脂身です。「蝤蠐」は蚕の繭(まゆ)であるらしく、「瓠犀」はカボチャあるいはスイカの種を塩煎りした「瓜子」の類だと言われています。
これらのものから、美女の姿を復元できるかと言うと、やはり本物を目にしたことがないと、難しいのではないでしょうか?
滬游雑記(1) ― 2015-02-22 23:20:20
GoogleのPlayブックスで、前から気になっていた「重修滬游雑記」が見つかり、無料ですし、早速購読しました。
「滬」は上海の略称であり、「滬游雑記」は1876年頃、上海で出版された書物です。作者は清末の文人・葛元熙、補訂を行ったのはその友人の袁祖志です。「重修滬游雑記」を読むと、倉山旧主という人の詩文が多数出てきますが、これは袁祖志の数ある別名のひとつです。
上海で「滬游雑記」が世に出た2年後には、早くも日本で和刻本である「上海繁昌記」が出版され、日本における最初の上海のガイドブックだと言えます。「重修滬游雑記」は改定増補版であり、出版されたのは1888年だと言われています。
いま読むと、実におもしろいです。
例えば、個人的に興味深いのは、「申江雑詠百首」(巻三)のなかに、「跑馬場」と題する一首があります。
「一騎飛騰数騎催 萬人叢裏顯龍媒 似因講武開場圃 卻把輸贏鼓舞來」
競馬場を詠んだ漢詩は、珍しいです。
上海の古い市街地図で「自來火廠」と書かれているのを見たことがあり、「自來水」はともかく、「自來火」は知らなかったので、そのうち調べようかと思ってましたが、「滬游雑記」を読むと、出て来ました。
「媒氣燈亦名自來火 英租界製於新鬧 法租界製於八仙橋」(巻二)
「外國秤尺」のくだり、「英国一磅即中国十二両 一因制即中国尺七分零九毫二絲 一幅地即中国八寸五分一釐 一碼即中国二尺五寸五分三釐」、「法国一吉羅蔦稜麼即中国二十四両七銭九分四釐 一葛稜麼即中国二分四釐七毫八絲 一邁當即中国二尺八寸一分七釐 一桑的邁當即中国二分八釐一毫七絲 一密理邁當即中国二釐八毫一絲七匁」とあるのを読んで、なるほど、「因制」が「インチ」、「幅地」が「フィート」、「吉羅葛稜麼」が「キログラム」、「葛稜麼」が「グラム」、「邁當」が「メートル」、「桑的邁當」が「センチメートル」、「密理邁當」が「ミリメートル」だと、ようやく理解できました。
巻四は、実用的な情報がたくさんあります。
上海から各地へ電報を打つ際の値段を記したり、銀行(銭荘)、宿(客棧)や西薬局(洋薬行棧)の場所を紹介したり、有名な俳優や「女唱書」の名前とその十八番の演目を挙げたり、まさになんでもありです。
邦人が上海に進出しはじめた時期に重なったこともありますが、和刻書がすぐに出たのは、本書の上海案内としての実用性にも注目したからでしょう。
「滬」は上海の略称であり、「滬游雑記」は1876年頃、上海で出版された書物です。作者は清末の文人・葛元熙、補訂を行ったのはその友人の袁祖志です。「重修滬游雑記」を読むと、倉山旧主という人の詩文が多数出てきますが、これは袁祖志の数ある別名のひとつです。
上海で「滬游雑記」が世に出た2年後には、早くも日本で和刻本である「上海繁昌記」が出版され、日本における最初の上海のガイドブックだと言えます。「重修滬游雑記」は改定増補版であり、出版されたのは1888年だと言われています。
いま読むと、実におもしろいです。
例えば、個人的に興味深いのは、「申江雑詠百首」(巻三)のなかに、「跑馬場」と題する一首があります。
「一騎飛騰数騎催 萬人叢裏顯龍媒 似因講武開場圃 卻把輸贏鼓舞來」
競馬場を詠んだ漢詩は、珍しいです。
上海の古い市街地図で「自來火廠」と書かれているのを見たことがあり、「自來水」はともかく、「自來火」は知らなかったので、そのうち調べようかと思ってましたが、「滬游雑記」を読むと、出て来ました。
「媒氣燈亦名自來火 英租界製於新鬧 法租界製於八仙橋」(巻二)
「外國秤尺」のくだり、「英国一磅即中国十二両 一因制即中国尺七分零九毫二絲 一幅地即中国八寸五分一釐 一碼即中国二尺五寸五分三釐」、「法国一吉羅蔦稜麼即中国二十四両七銭九分四釐 一葛稜麼即中国二分四釐七毫八絲 一邁當即中国二尺八寸一分七釐 一桑的邁當即中国二分八釐一毫七絲 一密理邁當即中国二釐八毫一絲七匁」とあるのを読んで、なるほど、「因制」が「インチ」、「幅地」が「フィート」、「吉羅葛稜麼」が「キログラム」、「葛稜麼」が「グラム」、「邁當」が「メートル」、「桑的邁當」が「センチメートル」、「密理邁當」が「ミリメートル」だと、ようやく理解できました。
巻四は、実用的な情報がたくさんあります。
上海から各地へ電報を打つ際の値段を記したり、銀行(銭荘)、宿(客棧)や西薬局(洋薬行棧)の場所を紹介したり、有名な俳優や「女唱書」の名前とその十八番の演目を挙げたり、まさになんでもありです。
邦人が上海に進出しはじめた時期に重なったこともありますが、和刻書がすぐに出たのは、本書の上海案内としての実用性にも注目したからでしょう。
滬游雑記(2) ― 2015-02-28 23:49:24
夕暮れの四馬路には馬車や人力車が往来し、ごったがえしていました。
後に名高い中華書局、商務印書館がここで創設され、多くの文化人も出入りするようになりましたが、19世紀末の上海・四馬路は、「租界」と呼ばれた列強の治外法権的な歓楽街のあったところで、有象無象が暗躍していました。
「重修滬游雑記」の記載によれば、「東洋車乃日本所創車式 双輪旁轉前支両直槓繋一小横木 車夫居其中両手挽而曳之 人以価廉随地雇坐 然疾走須防脱輪之患」
人力車のことは、「東洋車」と呼ばれていました。日本から、近代中国にもたらしたもののひとつです。
「玉品楼書場」など、「書場」と呼ばれる講談講釈のたぐいを聞かせる寄席は、この界隈に多数あったようです。
「重修滬游雑記」の記載では、「書場者 弾唱章回小説之書 如玉蜻蜓描金鳳落金扇白蛇伝三笑姻縁諸部是也」(巻一)
また、「女説書稱先生 妓女稱小姐」とあるように、女説書を職とする芸妓は「先生」と呼ばれていたそうです。
「申江雑詠百首」(巻三)に、「女説書」と題する詩も載っています。
五花八門入り乱れる上海の地、西洋ものとともに、東洋妓館なるものも軒をつらねていたそうです。
「重修滬游雑記」に、「外国戯術」や「外国影術」のあと、「東洋戯法」なる項も見えます。
「滬北近多東洋戯 大抵以縁縄踏竿為長 技與中国彷彿 惟三四齢童子着木屐 手持一傘行鉄線上作傾跌跳躍状 又有一人仰臥台上 以双足承巨鼓盤旋如飛或畳置十数鼓累而不墜為最奇 日本人呼為股技」
日本人による綱渡りや足技の演技が、見世物として行われていたようです。
後に名高い中華書局、商務印書館がここで創設され、多くの文化人も出入りするようになりましたが、19世紀末の上海・四馬路は、「租界」と呼ばれた列強の治外法権的な歓楽街のあったところで、有象無象が暗躍していました。
「重修滬游雑記」の記載によれば、「東洋車乃日本所創車式 双輪旁轉前支両直槓繋一小横木 車夫居其中両手挽而曳之 人以価廉随地雇坐 然疾走須防脱輪之患」
人力車のことは、「東洋車」と呼ばれていました。日本から、近代中国にもたらしたもののひとつです。
「玉品楼書場」など、「書場」と呼ばれる講談講釈のたぐいを聞かせる寄席は、この界隈に多数あったようです。
「重修滬游雑記」の記載では、「書場者 弾唱章回小説之書 如玉蜻蜓描金鳳落金扇白蛇伝三笑姻縁諸部是也」(巻一)
また、「女説書稱先生 妓女稱小姐」とあるように、女説書を職とする芸妓は「先生」と呼ばれていたそうです。
「申江雑詠百首」(巻三)に、「女説書」と題する詩も載っています。
五花八門入り乱れる上海の地、西洋ものとともに、東洋妓館なるものも軒をつらねていたそうです。
「重修滬游雑記」に、「外国戯術」や「外国影術」のあと、「東洋戯法」なる項も見えます。
「滬北近多東洋戯 大抵以縁縄踏竿為長 技與中国彷彿 惟三四齢童子着木屐 手持一傘行鉄線上作傾跌跳躍状 又有一人仰臥台上 以双足承巨鼓盤旋如飛或畳置十数鼓累而不墜為最奇 日本人呼為股技」
日本人による綱渡りや足技の演技が、見世物として行われていたようです。
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