物無定味、適口者珍2012-09-19 00:40:51

 中国の古い諺に、「三世長者知被服、五世長者知飲食」というのがあります。

 三代続く富家にあってはじめて着る物のことがわかり、五代続く富家にあってはじめて飲食のことがわかる、といった意味だと思いますが、それだけ、飲食探求の道は険しく、贅の限りを追及する風潮が金持ちたちの間にあったかも知れません。
 宋代の「事林広記」に出る話ですが、李太尉がある日料理人に向かって、鯰を百斤買って羹を二杯作れ、と命じたので、料理人は合点がいかず問い返しました。李太尉曰く、両頬の肉だけ取って作るのだ、ということです。
 この話が元になったか、わが日本にも、鯛の頬の身ばかりでかまぼこを作ったとか、イイダコのいいを集めて飯に炊いたとか、変な話が残っています。好事家の幻想も加わってひたすら大袈裟に伝わっただけかも知れませんが、飽食時代にあっては、ついついこういう軽薄なグルメブームが立つものです。にわか通人と志すも、実際のところは大の野暮だったりします。

 青木正児の「酒の肴」で読んだ話です。
 宋太宗があるとき近臣の蘇易簡に「食物では何が最も珍品か」と尋ねたところ、蘇は「口に合うたものが珍品(適口者珍)」だと答えたそうですが、誠に頷けます。
 珍奇で高価なものが美味しい、のではなく、時に合い、場所に合い、食べる人の口に合うものが、本当の美味だと言えましょう。


 そもそも、高価な珍味がいつまでも高価なままとは限らず、逆に安かったものがいつの間に高級品になったりもします。

 実はいま、塚田孝雄の「食悦奇譚~東西味の五千年」(時事通信社)を読んでいますが、その記述によれば、風流で聞こえる室町時代の将軍足利善政は酒の後、必ず抹茶の湯漬けを口にするのを習慣としていました。当時ではお茶は貴重品、それをまぜた湯漬けも、茶漬けが広まった十八世紀以降では考えられないほど、大変な贅沢だったようです。
 一方、今日では豊富な具を混ぜて多彩な味を作り出している炊き込みご飯は、江戸時代に「かて飯」と呼ばれた農漁民の主食がルーツであると書いてあります。元々、雑穀に芋や野菜、豆などを加えて量を増し、腹を満たす「下等料理」だったそうです。

 作家の出久根達郎は、幼少時に家が貧しくて、やむにやまれずに椎の実やドングリや芋ヅル、南瓜の種やイナゴの煮たものや炒ったものなど、いろいろ食べていたのが、それぞれがいまでは乙な肴だったり、珍味としてそこぶる珍重されたりするのを見て、溜息が出たそうです。

 まさしく、「物無定味、適口者珍」というべきです。


 木下謙次郎の「美味求新」(新光社、昭和二年)に言います。
 「味神は必ずしも富豪貴族の庖厨に来らずして、屡々愛求と趣味に富みたる質素なる人の食卓を見舞ふものとす。」

 次の歌を詠んだ江戸時代の歌人、橘曙覧の元にも、味の神が訪れたかも知れません。

 楽しさは稀に魚煮て子どもらと うましうましと言ひて食ふ時

コメント

_ 蓮 ― 2012-09-21 05:39:20

歴史、伝統と個性がそなわってはじめて味わいがでてくるのは何も食事や被服の趣味だけではないのでしょうね。

_ 花うさぎ ― 2012-09-21 20:34:44

炊き込みごはんは、下等料理なわけですね。まあ、わかります。

大学時代に恩師が「炒飯なんて、貧しい料理の代名詞ですから、あれはご飯が古くなっても捨てられない貧しい人が油で炒めて食べたものです。
中華料理で何が好きかと聞かれて炒飯なんて言うのは、恥ずかしいことです」とおっしゃっていました。
後に夫にその話をすると、「確かに。炒飯はおかずを作ろうと思っても作れない人が、食べるものだ」と言っていました。

でも、今、いろいろと検索してみたけれど、炒飯が下等料理だというような文章はネットでは見つかりませんでした。
こんなことを言ってはなんですが、恩師も夫もときどき?な話をすることがありますので、実際のところ、本当なのか、思いつきで言っているのか、よく分かりません。
Fujimotoさん、やっぱり炒飯には下等料理のイメージがあるのでしょうか。

_ T.Fujimoto ― 2012-09-22 23:05:24

蓮さん、こんばんは。早起きですね。
時を重ねてじっくり気品のようなものを作り出す場合もあれば、代を重ねて却って無駄無益な浮華を生み出す場合もあります。歴史に裏打ちされる伝統の凄みに感動することも多いが、伝統などないほうが実はうまく事が運ぶと思うときもあります。何が違えばそう結果が変わるのでしょうか?

_ T.Fujimoto ― 2012-09-22 23:49:57

花うさぎさん、こんばんは。
確かに、家庭ではよくご飯やおかずの残りを使って炒飯を作りますが、だからと言って、下等料理である印象は僕にはあまりないです。
元は広東など南方の料理だと思いますので、中国でも北方出身の人だとどういうイメージを持っているか、そういえばよくわかりませんが。

_ ゑこう ― 2012-09-23 16:05:17

「適口者珍」旨いこと言いますね。
質素でもまっとうな食材と調理に、まっとうに働いて生じる少しの空腹と、粗なもの粗と愚痴らずにすむ心があれば、なんでも美味しいですね。☆ゑ

_ T.Fujimoto ― 2012-09-25 07:52:00

ゑこうさん、おはようございます。
蘇易簡の話は南宋の林洪の「山家清供」に出ていますが、その続きがあります。
ある寒い夜、熱燗を痛飲して大酔し、夜半忽ち目覚めて喉が渇いたので、月明かりの中庭に出てみると、残雪の中に薺を漬けた瓶があり、雪で手を潔め、その汁を汲んで数椀貪り飲みましたら、その旨さは仙厨の珍味もこれに及ぶまいと思ったそうです。
その後に薺の製法を帝に聞かれて話がさらに続きますが、ゑこうさんが仰ったように、質素でもまっとうな食材でも、良い調理を、良い時、良い気分を得て、最高の珍味になる、ということですね。

_ 蓮 ― 2012-11-11 15:45:07

家族そろって食卓を囲み、「美味しいね」と言いながら食べる。
仕合せとはそんなことを指していうのかもしれませんね

_ T.Fujimoto ― 2012-11-11 21:51:52

蓮さん、こんばんは。
仰るとおり、儚く、短い人生のなかでも、いろいろな形で幸せを感じることができますね。

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