関東大震災のこと ― 2011-03-30 09:07:46
1923年9月1日の関東大震災の後、東京ではスイトンが売れ、ドラ焼きが売れたそうです。簡単に作れるゆえです。その頃普及し始めた懐中電灯も飛ぶように売れました。
自転車屋さんも繁盛しました。自転車が売れた、というわけではなく、修理の依頼が多かったらしいです。いろんなものが散乱する道路を走るので、自転車のパンクが多発していました。
ここ小田原も、二万六千だった人口から死者370名、負傷者1918名を出す大惨事となりました。なかでも火災の延焼が凄まじく、小田原全町の中心三分の二は業火の生け贄になったそうです。
「大正小田原万華鏡」(高田掬泉)によると、「夜に入ると火焔はますます拡がり、明るい火焔の中にひときわ輝く火柱が仁王立ちし、紙片のような火の粉がきらめき舞い上がる。(略)紙片のように小さく見えた火の粉は実は家々の屋根のトタン板であったのだ。それほど高く舞い上がったのだった。そして火柱はいわゆる竜巻であったのだ。深更になってこんどは津波がやってくるらしいという囁きが竹藪のなかを伝わってきた。五十人近くもいたと思われる避難者の間に動揺が見えたが、中の一人が『ここまで逃げて来たんだ。どこまで逃げたって同じだ。津波が来るんならみんな一緒に死のうや』と呟くと、みなそれに和するでもなく黙ったままで誰も立ち上がらなかった。」
この体験談も含めて、だと思いますが、作者は「私たち日本人の性格が、あっさりと諦め易く、運命には抵抗せず、むしろ運命に順応して生き残ってゆく智慧を体得していることは、実は長い歴史の中でたびたび経験した自然災害の経験から得た民族性なのか知れない。」と書いています。
しかし一旦復興に向かうと、粘り強く頑張り、足取りが思いのほか早かったのも日本人ならでは、かも知れません。
「私はこの焦土が果たして甦ることがあるのだろうかと小さな胸に不安を隠すことができなかった。しかしそれは少年の杞憂であった。親戚に避難していた私の一家は数日ののち焼け跡に戻り、近所の人との共同バラックに身を寄せた。食糧はいちはやく届いたアメリカからの救援のメリケン粉で作ったすいとんである。同じく救援の鮭の塩煮の缶詰。そして焼けなかった田舎の親戚からの見舞いの食糧。」(高田掬泉)
「その時です。リーダーらしき人たちが『助かった以上助け合って生きよう。それぞれの家にあるものは村のものにする。勝手な行動は許されない』と言って、強力なリーダーシップを取ったのでした。それから共同炊事に切り替えられ、なんとか生き延びることができたのです。」(「聞き語り おだわら」、内田一正)
「『第一小学校の児童は九月十五日午前十時、二宮神社境内に集合すべし』と消し炭で書かれた立て札が、街の焼け跡に立てられているのを見たのはおそらく九月十日であったと覚えている。(略)私は指示に従って二宮神社へ登校した。(略)二宮神社境内の授業はもちろん青空教室である。私たち児童は教科書も筆記用具も失っており、私は焼け残った親戚から貰った筒袖の絣を着て、これも貰ったコマ下駄をはいて手ぶらで登校したのである。(略)机も黒板もなく生徒は地べたに腰を下ろして、先生を見上げて話を聞くだけである。」(高田掬泉)
「大地震後、(湯河原の)鍛冶屋まで電気がきているというので、富士水電から電気がもらえるかどうか、神保という技師が工夫を二人連れて、野宿しながら、送電線が使えるかを確かめながら、箱根を野超え山越えして交渉にいきました。(略)それで官庁や道路から優先して、次々に各地をつけて歩きました。(略)当時はよそからの応援も無いし、資材も無いし、手持ちのものと、あとは倒れている家の電線を切り取って、大事につないで、使える家からやっていたんです。」(「聞き語り おだわら」、市川一郎)
テレビはもちろん、ラジオさえなかった時代なので、突然の大地震に襲われ、後は情報がほとんどなく、恐怖と困惑は言うまでもありません。
かろうじてあるのは、届くか届かないかわからない新聞です。
古書店のあるじでもあった作家の出久根達郎によれば、記者が手書きで慌ただしく綴った号外がいまも残っています。
「横浜市内及ビ港内ノ設備ハ全滅シタ 港内ニ碇泊中ノロンドン丸ハ岸壁破壊ノタメ 避難セントシタ際 他船ト接触シ船体数カ所ニ(略) バリー丸ト共に多数の避難民ヲ収容シテ居ル」(9月4日民友新聞号外)
「老人と海」等で知られる著名作家のヘミングウェイ(Ernest Hemingway)は若いときに新聞特派員をしていたが、のちにこの船の客のインタビューをフランスで行いました。他の記者による日本人へのインタビューも交え、横浜での震災状況を中心に、「Japanese Earthquake」(日本の地震)というタイトルの記事を書いたそうです。
自転車屋さんも繁盛しました。自転車が売れた、というわけではなく、修理の依頼が多かったらしいです。いろんなものが散乱する道路を走るので、自転車のパンクが多発していました。
ここ小田原も、二万六千だった人口から死者370名、負傷者1918名を出す大惨事となりました。なかでも火災の延焼が凄まじく、小田原全町の中心三分の二は業火の生け贄になったそうです。
「大正小田原万華鏡」(高田掬泉)によると、「夜に入ると火焔はますます拡がり、明るい火焔の中にひときわ輝く火柱が仁王立ちし、紙片のような火の粉がきらめき舞い上がる。(略)紙片のように小さく見えた火の粉は実は家々の屋根のトタン板であったのだ。それほど高く舞い上がったのだった。そして火柱はいわゆる竜巻であったのだ。深更になってこんどは津波がやってくるらしいという囁きが竹藪のなかを伝わってきた。五十人近くもいたと思われる避難者の間に動揺が見えたが、中の一人が『ここまで逃げて来たんだ。どこまで逃げたって同じだ。津波が来るんならみんな一緒に死のうや』と呟くと、みなそれに和するでもなく黙ったままで誰も立ち上がらなかった。」
この体験談も含めて、だと思いますが、作者は「私たち日本人の性格が、あっさりと諦め易く、運命には抵抗せず、むしろ運命に順応して生き残ってゆく智慧を体得していることは、実は長い歴史の中でたびたび経験した自然災害の経験から得た民族性なのか知れない。」と書いています。
しかし一旦復興に向かうと、粘り強く頑張り、足取りが思いのほか早かったのも日本人ならでは、かも知れません。
「私はこの焦土が果たして甦ることがあるのだろうかと小さな胸に不安を隠すことができなかった。しかしそれは少年の杞憂であった。親戚に避難していた私の一家は数日ののち焼け跡に戻り、近所の人との共同バラックに身を寄せた。食糧はいちはやく届いたアメリカからの救援のメリケン粉で作ったすいとんである。同じく救援の鮭の塩煮の缶詰。そして焼けなかった田舎の親戚からの見舞いの食糧。」(高田掬泉)
「その時です。リーダーらしき人たちが『助かった以上助け合って生きよう。それぞれの家にあるものは村のものにする。勝手な行動は許されない』と言って、強力なリーダーシップを取ったのでした。それから共同炊事に切り替えられ、なんとか生き延びることができたのです。」(「聞き語り おだわら」、内田一正)
「『第一小学校の児童は九月十五日午前十時、二宮神社境内に集合すべし』と消し炭で書かれた立て札が、街の焼け跡に立てられているのを見たのはおそらく九月十日であったと覚えている。(略)私は指示に従って二宮神社へ登校した。(略)二宮神社境内の授業はもちろん青空教室である。私たち児童は教科書も筆記用具も失っており、私は焼け残った親戚から貰った筒袖の絣を着て、これも貰ったコマ下駄をはいて手ぶらで登校したのである。(略)机も黒板もなく生徒は地べたに腰を下ろして、先生を見上げて話を聞くだけである。」(高田掬泉)
「大地震後、(湯河原の)鍛冶屋まで電気がきているというので、富士水電から電気がもらえるかどうか、神保という技師が工夫を二人連れて、野宿しながら、送電線が使えるかを確かめながら、箱根を野超え山越えして交渉にいきました。(略)それで官庁や道路から優先して、次々に各地をつけて歩きました。(略)当時はよそからの応援も無いし、資材も無いし、手持ちのものと、あとは倒れている家の電線を切り取って、大事につないで、使える家からやっていたんです。」(「聞き語り おだわら」、市川一郎)
テレビはもちろん、ラジオさえなかった時代なので、突然の大地震に襲われ、後は情報がほとんどなく、恐怖と困惑は言うまでもありません。
かろうじてあるのは、届くか届かないかわからない新聞です。
古書店のあるじでもあった作家の出久根達郎によれば、記者が手書きで慌ただしく綴った号外がいまも残っています。
「横浜市内及ビ港内ノ設備ハ全滅シタ 港内ニ碇泊中ノロンドン丸ハ岸壁破壊ノタメ 避難セントシタ際 他船ト接触シ船体数カ所ニ(略) バリー丸ト共に多数の避難民ヲ収容シテ居ル」(9月4日民友新聞号外)
「老人と海」等で知られる著名作家のヘミングウェイ(Ernest Hemingway)は若いときに新聞特派員をしていたが、のちにこの船の客のインタビューをフランスで行いました。他の記者による日本人へのインタビューも交え、横浜での震災状況を中心に、「Japanese Earthquake」(日本の地震)というタイトルの記事を書いたそうです。
最近のコメント