同族的文学 ― 2011-02-21 22:55:04
先日の記事で引いた、大田南畝の「君もまめ我らもまめはまめながら、ふちうにありて泣く草鞋くひ」に対して、whyさんからコメントを頂きました:
『二つも引っ掛けるとはお見事ですね。語呂からして、意味合いからして、そう簡単に思いつかないものでしょう。
中国にも「東邊日出西邊雨、道是無情却有情」や「春蚕到死絲方尽、蠟炬成灰涙始乾」などがありますが、二つも引っ掛けた句、ありましたっけ? 』
「東邊日出西邊雨、道是無情却有情」は知らなかったのですが、なかなか良くできて、感心しました。
僕が覚えているのは「因荷而得藕,有杏不須梅。(因何而得偶,有幸不須媒)」と、不完全かも知れませんが、曹雪芹の「千芳一窟(哭),萬艶同杯(悲)」ぐらいですか。
こういう同音異義の引っかけは、伝統的な中国文学には少ないかも知れません。
枚挙にいとまがないほど、日本の文学ではたくさん出てきます。
原因のひとつに、日本語の発音の単純さが挙げられるかも知れません。
そう言えばだいぶ前に、花子ママさんのところで初恋は電話ボックス派か携帯メールかと聞かれ、郵政省メールだと自白したところ、「ポストの前でもじもじしているだろう」と揶揄されたので、反撃してみました。
「二つもじ 牛の角もじ もじもじと
恋ひのふみ 二の足をふみ ふみぶみで」
まあ、まったく反撃になっていないのは置いておくとして、格調の高さを求めないなら、僕でも駄洒落の句が簡単に作れる、という話です。
しかし待って、中国語だとそうでもないですかね?本当に中国語だと駄洒落が少ないでしょうか?
いま書きながら思い出してみると、現代の宣伝ではよく見かけるような気がします。
新聞の三面記事や雑誌記事の表題にもよく出ていますね。
してみれば、中国語に駄洒落の文化がないというより、正統な文学としてなかなかなりえなかっただけかも知れません。ひとことで言えば「難登大雅」。中国文学では長い間、もっときまじめな形を求め、諷刺にしても日本的なからかいではなく、強い諷錬精神に富むものが最良だとしていたように思えます。
脱線しそうですが、その先日の記事で、「古今和歌集」の仮名序を、曹丕の「論文」と比較しましたが、必ずしも適切でないことに、いま気付きました。
中国の伝統的な一流文学は、政治との関係においてその価値が見出され、それに対して日本の文学は、成り行き上かも知れませんが、脱政治であるように見えます。
男女の仲を和らげ、武人の心を慰める、とは言えても、「経国の大業」とはちょっと違うような気がします。
日本では、宮廷の女房、法師、隠者、町民など、政治的にはアウトサイダーである人たちが長期的に文学の中心を占めているので、高官、士大夫が支えている伝統的な中国文学と、なんらか異なる傾向を示すのは当然かも知れません。
政治は文学にとって縁が薄く、文学に政治を取り入れるのは野暮、という考え方が強いように感じます。しかしこの脱政治の傾向は、国際的に見て、決して一般的なものではないと思います。
ついてに、高浜虚子の話を書いたとき、頂いた多くのコメント(http://tbbird.asablo.jp/blog/2010/09/30/5379220)を、いまさら思い出した。
日本人の叙情が、短歌や俳句という短い短詩形で表されることが多いせいもありますが、詠嘆が頂点だけつまみ取る傾向が強いです。中国の唐詩、宋詞だとそうした詠嘆だけでは不足で、しばしば人生観や思想が必要になってきます。
これも、実は中国の場合においてのみ特殊にそうなっているのではなく、ヨーロッパの場合でもそうであるようで、大陸系の詩がみなそうらしいです。多読していないですが、ワーズワースの詩も自然を詠んだあとに、その対比で思想を説き、人生について見解を述べているものが多いです。
説明や説得しようとする努力が大きく欠如している短歌や俳句は、詠嘆のみを楽しみ、その共感のみを期待しています。良いか悪いかではないし、線を引いて二分できるほど単純でないのも承知しています。ですが、広い大陸的な文学と比較すれば、言わずともの部分が強く、かなり海島的な、家族的な、同人的な文学だと思えてしまいます。
家族的な場において、他の力との均衡や支配を考える政治の問題は野暮な課題、同族的な信頼をかえって傷つける話になってしまうのも、なんとなく納得してしまいました。
『二つも引っ掛けるとはお見事ですね。語呂からして、意味合いからして、そう簡単に思いつかないものでしょう。
中国にも「東邊日出西邊雨、道是無情却有情」や「春蚕到死絲方尽、蠟炬成灰涙始乾」などがありますが、二つも引っ掛けた句、ありましたっけ? 』
「東邊日出西邊雨、道是無情却有情」は知らなかったのですが、なかなか良くできて、感心しました。
僕が覚えているのは「因荷而得藕,有杏不須梅。(因何而得偶,有幸不須媒)」と、不完全かも知れませんが、曹雪芹の「千芳一窟(哭),萬艶同杯(悲)」ぐらいですか。
こういう同音異義の引っかけは、伝統的な中国文学には少ないかも知れません。
枚挙にいとまがないほど、日本の文学ではたくさん出てきます。
原因のひとつに、日本語の発音の単純さが挙げられるかも知れません。
そう言えばだいぶ前に、花子ママさんのところで初恋は電話ボックス派か携帯メールかと聞かれ、郵政省メールだと自白したところ、「ポストの前でもじもじしているだろう」と揶揄されたので、反撃してみました。
「二つもじ 牛の角もじ もじもじと
恋ひのふみ 二の足をふみ ふみぶみで」
まあ、まったく反撃になっていないのは置いておくとして、格調の高さを求めないなら、僕でも駄洒落の句が簡単に作れる、という話です。
しかし待って、中国語だとそうでもないですかね?本当に中国語だと駄洒落が少ないでしょうか?
いま書きながら思い出してみると、現代の宣伝ではよく見かけるような気がします。
新聞の三面記事や雑誌記事の表題にもよく出ていますね。
してみれば、中国語に駄洒落の文化がないというより、正統な文学としてなかなかなりえなかっただけかも知れません。ひとことで言えば「難登大雅」。中国文学では長い間、もっときまじめな形を求め、諷刺にしても日本的なからかいではなく、強い諷錬精神に富むものが最良だとしていたように思えます。
脱線しそうですが、その先日の記事で、「古今和歌集」の仮名序を、曹丕の「論文」と比較しましたが、必ずしも適切でないことに、いま気付きました。
中国の伝統的な一流文学は、政治との関係においてその価値が見出され、それに対して日本の文学は、成り行き上かも知れませんが、脱政治であるように見えます。
男女の仲を和らげ、武人の心を慰める、とは言えても、「経国の大業」とはちょっと違うような気がします。
日本では、宮廷の女房、法師、隠者、町民など、政治的にはアウトサイダーである人たちが長期的に文学の中心を占めているので、高官、士大夫が支えている伝統的な中国文学と、なんらか異なる傾向を示すのは当然かも知れません。
政治は文学にとって縁が薄く、文学に政治を取り入れるのは野暮、という考え方が強いように感じます。しかしこの脱政治の傾向は、国際的に見て、決して一般的なものではないと思います。
ついてに、高浜虚子の話を書いたとき、頂いた多くのコメント(http://tbbird.asablo.jp/blog/2010/09/30/5379220)を、いまさら思い出した。
日本人の叙情が、短歌や俳句という短い短詩形で表されることが多いせいもありますが、詠嘆が頂点だけつまみ取る傾向が強いです。中国の唐詩、宋詞だとそうした詠嘆だけでは不足で、しばしば人生観や思想が必要になってきます。
これも、実は中国の場合においてのみ特殊にそうなっているのではなく、ヨーロッパの場合でもそうであるようで、大陸系の詩がみなそうらしいです。多読していないですが、ワーズワースの詩も自然を詠んだあとに、その対比で思想を説き、人生について見解を述べているものが多いです。
説明や説得しようとする努力が大きく欠如している短歌や俳句は、詠嘆のみを楽しみ、その共感のみを期待しています。良いか悪いかではないし、線を引いて二分できるほど単純でないのも承知しています。ですが、広い大陸的な文学と比較すれば、言わずともの部分が強く、かなり海島的な、家族的な、同人的な文学だと思えてしまいます。
家族的な場において、他の力との均衡や支配を考える政治の問題は野暮な課題、同族的な信頼をかえって傷つける話になってしまうのも、なんとなく納得してしまいました。
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