高浜虚子語録2010-09-30 23:46:35

 高浜虚子は、明治から昭和までの俳人、小説家。ホトトギスを主宰し、俳壇に君臨する存在でした。

「いい芸術品がのべつに出来るものではありますまい。いいものはたまたま出来るのである、つまり天から授かるものである、と私はそう思っておる。」
 文章本天成、妙手偶得之。そういうことなのですかね。

「俳句を翻訳などすることは無益なことであって、その面白味を西洋人に知らしたいというならば、西洋人に日本語を解からし、日本に生活させ、日本人同様にするより外に方法はないと思う。」
 文学と言うものはそもそも翻訳が難しいです。特に季など俳句のあまり独特な味わいを考えると、あるいはそうかも知れません。

「遺したいという慾望が人間にはあります。それはそれでいい。けれども滅びるものは滅びるに任すという考え方が私には強いです。(中略)永田青嵐が一万年滅びない考えから供養塔を高野山に建てたという、それは結構なことだが、私ならそんなことはやらないであろうと思い、それだけの話です。」
 人間というものは滅びてゆく、あとかたもなくなるが、それでいいんだとも、書かれていました。虚子は、そのような死生観を持っていたのですね。

コメント

_ 花うさぎ ― 2010-10-02 08:12:45

ああ、そうですね。
結局、どう生きようと、たいていの人が逝った後には残るものはないのですよね。
それをどこかで知っていたほうが、潔い生き方となるかもしれません。

俳句など、やはり翻訳もできないし、解釈もできないでしょう。
「だからそれで?」と理屈で考えようとした途端に、輝きがなくなってしまう。
だからこそ、俳句が俳句であって、他のものに取って代わられないのですよね。
今自分がいるこの何でもありの世界から、何と何を切り取って、見せるか。その妙ですね。そこに理屈も解釈もいらない。だからこそ、正岡子規は「写実に徹すること」の大切さを説いたのでしょう。

>つまり天から授かるものである、と私はそう思っておる

以前、新聞の特集で読みましたが、数学もそうらしいです。
「何もしなくても、頭から流れ出してくる。だから、数学はラクだ」というような数学者の言葉が載っていました。苦労して勉強する私のようなものとは、数学と別の関係が結ばれているのだなと思いました。

_ 花うさぎ ― 2010-10-02 08:22:35

今、高浜虚子の言葉を読んで思ったのですが、
だからこそ、「俳句は写実である」のですね。
花が無心に咲いて、無心に散るように、そこに人間の営為や感情を持ち込まず、同化するというか、それがが「俳句のまこと」だと述べているのではないでしょうか。

_ sharon ― 2010-10-02 19:49:34

虚子の死生観は、昔「紅楼夢」の中の言葉と共通することがあります。
在《红楼梦》第二十二回里,宝钗点了一出戏、其中戏文道「赤条条来去无牵挂」。黛玉葬花时也道「质本洁来还洁去」。
虚子様は「紅楼夢」を読んでば食ったとは言わないが、ある意味では《红楼梦》の思想を日本語で解釈し、つまり翻訳したけど、その難しさが分かって俳句も翻訳したら大変と諦め語録。

_ sharon ― 2010-10-02 20:17:01

というか私の憶測です。

_ 花うさぎ ― 2010-10-02 22:16:30

>ある意味では《红楼梦》の思想を日本語で解釈し、つまり翻訳したけど、その難しさが分かって俳句も翻訳したら大変と諦め語録。

正岡子規や高浜虚子は、「俳句は、技巧や作為を廃して、写実に徹さなくてはならない」というような主張をしていたと思います(うろ覚えです)。

私が思うに、「俳句に翻訳は無益」というのは、どういうことかというと、翻訳をするとは、「解釈を加えること、作為をすること」を免れないことであるからじゃないでしょうか。
難しいからやろうとしないのではなくて、「作為が加わるから」やらないということなのかなと。

_ (未記入) ― 2010-10-02 22:18:11

高浜虚子の「いいものはたまたま出来るのである、つまり天から授かるものである」という言葉も「無作為」を表しているのかもしれませんね。

_ 花うさぎ ― 2010-10-02 22:40:42

こういう考え方というのは、日本文化に通底するものですよね。
私は少女時代に安達流の華道を習っていた時期がありますが、安達流の考え方と高浜虚子の考え方は根は同じもののようです。

つまり、西洋や中国などでは、おそらく花を飾る時には、「これを使ってどんなふうに華麗な装飾を作るか」を目標とするのだと思いますが、
安達流では「花が野に咲く姿を切り取ってきて再現する」ということを目指すようでした。

俳句もそういうものですね。

(失礼しました。とりとめもなく、いろいろ思い、多く書きすぎました。上の未記名のコメントも私のです。)

_ T.Fujimoto ― 2010-10-03 00:01:47

花うさぎさん、
残るか残らないかと言えば、厳密に言えば生まれて来て生きたのだから、世の中、他の人物に何も影響を残さないのはむしろ不可能なのでしょう。しかしその影響は大小があるとして、当たり前ですが、時間とともに希薄になってゆき、いずれほとんど「あとかたもなくなる」だとは思います。意図的な努力をしてより長く残すことはある程度可能で、そうしたければ「それはそれでいい」けど、所詮は本質的な問題でなく、虚子はあまりそのことに精力を注ぐつもりはないだなと、表層的なところまでかも知れませんが、僕は理解してみました。

_ T.Fujimoto ― 2010-10-03 00:30:20

もうひとつ、俳句の翻訳ですが、不可能でないとしても、忠実な翻訳は難しいかと僕も思います。雰囲気を伝えるためには読む者の環境、国柄に合わせて、内容置き換える必要まで生じる場合があります。そうすると、ある種の創作、もしくは再話文学になりますね。
忠実に直訳しようとすればするほど、場合には膨大な注釈が要りそうです。究極に言えば、日本語をわからせ、日本の風土、歳時記を理解させる、というところまで必要かも。
言葉の違いばかりでなく、高浜虚子の時代は台湾にもブラジルにも日本人がたくさん発った時代です。時候の変化に重みを置いて詠う文学は、日本本土を離れるだけと混乱をきたしはじめ、「これが俳句の最も弱点であるが同時に長所である。融通が利かないが同時に強い存在価値がある」(虚子)。

_ T.Fujimoto ― 2010-10-03 00:41:32

花うさぎさん、数学はラクでしょうか?
「頭から流れ出してくる」という経験は、残念ながら僕にはまったくなく、よくわかりませんが、数学者の藤原正彦の記述は印象深いです。
「明け方、ふとんのなかでインスピレーションが閃いた。出来た!と確信した。枕元の紙に書き留め、また眠ろうとしたが、興奮のためか、眠りに入れない。こういう時が一番困る。たとえ思い切って起床し、インスピレーションの正否を検証しょうとしても、無駄なことは経験上分かっている。寝ぼけた状態では、論理的思考がまったく働かないからである。インスピレーションのほうは論理的思考と無関係だから寝ていても湧くのだが。」
(「遙かなるケンブリッジ ~一数学者のイギリス」より)

_ T,Fujimoto ― 2010-10-03 00:58:42

sharonさん、紅楼夢の話、ありがとうございます。
言葉は浅白なれど、理解したうえで受け入れることができるか、ですよね。
「証道歌」の「夢裡明明として六趣あり、覚めて後、空空として大千も無し」あたりを思い出してしまいました。

_ T.Fujimoto ― 2010-10-03 01:20:33

花うさぎさん、
写実の重要さを訴えるのは、高浜虚子の著作を読むと確かによく出てきますよね。
「よくわれわれは句を作りに出かけたりする時に、写生に行こうといっていた。」
「主観がなければ文学はない。しかしその主観を最もよく運ぶものは客観の具象である。」
一方で、虚子は「芸術とは技巧なり」とも言っていました。
「俳談」に収録されている「技巧ということ」では、「文章でも俳句でもその思っている感じ人に伝えるになるべき平明でわかりやすく、ただ何気なく受け取らすということが一番必要だろうと思う。」とあり、ここでの技巧は、平明でわかりやすく伝えることを言っているように思いましたが。

_ T.Fujimoto ― 2010-10-03 01:32:39

> 安達流では「花が野に咲く姿を切り取ってきて再現する」ということを目指すようでした。
> 俳句もそういうものですね。

なるほど、わかるようなわからないような。
もしかして、高浜虚子の次の言葉に通じるのでしょうか?

「外国人は日本人のように自然を詠んで満足できないでしょう。
支那では『君が旧府に帰るを送れば明月前川に満つ』だけではなく、『主人相識らず偶座林泉の為なり』がくっついている、ここが違うところだ、日本人は唯『明月前川に満つ』だけで満足している。」

_ 花うさぎ ― 2010-10-03 21:23:41

>なるほど、わかるようなわからないような。

ああ、そういうものですか。
私も深く考えたことがありませんが、分かるとか、分からないとかではなくて、10代のころから、「そういうもの」として受け止めていました。
茶道の先生についていたりしましたから、利休がいうように「花は野にあるように」あるのが、一番、純粋であるべき姿だと思っていました。たぶん、それは、「ことさらに飾ろう、美しく見せよう」と思う心に「邪」、「雑」というべきものが混じるからだと思います。
実際は金満奥様の道楽野庭である茶道教室などには、なじめませんでしたが、今にして思えば、いろいろと子どもゆえの、物事をそのまま受け取る感性で得たものがありました。


>文章でも俳句でもその思っている感じ人に伝えるになるべき平明でわかりやすく、ただ何気なく受け取らすということが一番必要だろうと思う。

万葉集のころの素朴で力強い表現に戻ろうということですね。
言葉とは、飾れば飾るほど、力を失ってしまうものです。
最初の感動をそのまま語らずに、いじくりまわすほど力がなくなる、そういうことだと思います。

>『君が旧府に帰るを送れば明月前川に満つ』だけではなく、『主人相識らず偶座林泉の為なり』がくっついている

前者は客観的な事実だけですが、後の部分には「主観」があるからでしょうね。主観は「ピュア」じゃないから。

_ sharon ― 2010-10-04 07:50:15

つまり俳句は四字熟語の成語みたいに訳すのが返って「画蛇添足」ですね。
ところで今世界で日本と中国両国しか漢字を使わないです。
唐诗宋词もそうなんだけど、
漢字が分からない外国人や英語人にはやはり英語で訳さないと意味は伝わらないでしょう?其処は翻訳の頂点でしょうか?

_ (未記入) ― 2010-10-05 16:40:18

sharonさん。

翻訳では、伝えきれない。

原語で読もうと思っても、翻訳で伝えられないものが分かるレベルまで、外国語を理解できる人も、また少ない。

ということですね。

_ 花うさぎ ― 2010-10-05 18:08:01

あ、すみません。上の書き込みは私です。

_ sharon ― 2010-10-05 19:20:19

翻訳も限界ありですね。

_ T.Fujimoto ― 2010-10-06 07:59:10

花うさぎさん、おはようございます。
主観がなければ文学はない、しかし良い素材を選んでその良さを生かす日本料理のように、素朴でピュアな写実に重きを置いた、そういうことでしょうか?
だとすれば、対角線上にあるのはさしずめ、手の込んだソースを発展させたフランス料理や、自然にない平面幾何学様式を作り出したフランス式庭園なのですか?

_ 花うさぎ ― 2010-10-06 12:45:53

難しい問ですね。

もちろん、主観がなければ文学はないのです。だけど、主観でなくて客観という場合、
余計な雑な心の動きを入れないということじゃないですか。

何度も同じことになってしまいますが、一瞬の感動をそのまま表わしなさい。そのことに集中しなさい。あれこれ文章の妙に気遣ったりだとか、典故を織り込んだりだとかすると、
最初の感動から離れていくでしょう。余計なものが混じっていくでしょう。
そういうことなのだと思います。

でも、単純にこれはもう、日本人の感性を大切にしましょうということかもしれません。
たとえば、お金があったら、中国人はお金持ちそうな家を建てるでしょう。
日本人は、案外、お金があっても、素朴な木目をいかしたような家を建てるような気がします。














うと、知識をひけらかしたり、文章をひねりまわしたりしないで、ものごとから受ける感動をそのまま表すということなのです。

_ (未記入) ― 2010-10-06 12:46:53

>うと、知識をひけらかしたり、文章をひねりまわしたりしないで、ものごとから受ける感動をそのまま表すということなのです。

すみません。あれこれ考えながら書いていたら、余計なものが残ってしまいました。

_ T.Fujimoto ― 2010-10-08 23:59:06

sharonさん、
「画蛇添足」となるか、「画龍点睛」となるか、そこは工夫の為所であって、翻訳者の腕の見せ場ですね。
なんだかんだ、彼らがいなければ、「カラマーゾフの兄弟」にしろ「幻獣辞典」にしろ、最近読んだものも本来一生近づけられそうにないもので、そう言う意味でも僕などは日々感謝しています。

_ T.Fujimoto ― 2010-10-09 00:06:12

花うさぎさん、
「翻訳では、伝えきれない」、と仰られているのは、そうかも知れません。
しかし原語で読もうと思っても、その伝えきれないレベルに、さらに遠く届かない、という場合がほとんどなので、翻訳で我慢するしかないですね。
それに、翻訳作品なのに、時には「山のあなたの空遠く」のような見事な美文に出会うことも、ありますよね。

_ T.Fujimoto ― 2010-10-09 00:17:55

>日本人は、案外、お金があっても、素朴な木目をいかしたような家を建てるような気がします。

見た目は素朴ながらも、細かいところにこだわり、目を凝らしてみないと分からない細部にお金をかけるような家を、日本人は建てるかも知れません(笑)。

_ 花うさぎ ― 2010-10-09 13:22:17

>翻訳作品なのに、時には「山のあなたの空遠く」のような見事な美文に出会うことも、ありますよね

上田敏の翻訳に、さらに翻訳がいる時代になっているのかもしれません。

>見た目は素朴ながらも、細かいところにこだわり、目を凝らしてみないと分からない細部にお金をかけるような家

あはは。それは大いにあり得ることですね。

_ T.Fujimoto ― 2010-10-12 06:51:12

花うさぎさん、確かに翻訳や注釈が必要なのは外国語の文章ばかりではないです。
上田敏の翻訳に、さらに翻訳が要る時代になったのは、そうかも知れません。
解釈を加えずにそのままだと、異なる時空の人々に理解してもらえない場合が多く、難しいですね。

_ why ― 2010-11-28 22:56:12

遅ればせながら…
皆さんがおっしゃるように、俳句は和の真髄につながる表現方法ですね。日本文化の美意識が具現されていて、それを異なる文化環境に置き換えても、寸分違わずぴったりのものになれるほど、再現できないですね。
お刺身とか、和風住宅とか、シンプルに見えても、実はものすごく贅を尽くしたものだったりしますよね。こってりとした味付けではなく、ごてごてと飾り付けるのではなく、あえて余韻を残しておくところがミソですね。

俳句もそうではありませんか。「古池や蛙飛び込む水の音」を見たって、感情的要素を一切挟まず、見たものをそのまま描いているだけですよね。一方、中国の場合、例えば「別有憂愁暗恨生、此時無声勝有声」だったり、「入夜思帰切,笛声清更哀」だったりですよね。より日本の侘び寂びに近いもので、「空山不見人,但聞人語響」でも、後ろにまだ2行続きますからね。
読む者にあえて想像の余地を残す、そしてそれを読んだ人たちはそれぞれの感受性でもって、想像して、イメージを補完するという一連の作業で、ひとつの作品がやっと完結するんですよね。だから、俳句は字面から読み取れる情報量が少なく、スカスカですね。
そこがやはり中国の文学表現との根本的な違いで、中国語はやはりできるだけ短い文にも情報を盛りこんで、より多く伝えることをよしとするでしょう。文学においては、長い歴史にわたって、このような美意識がしっかり培われている中国人には、やはり俳句の良さを理解するのは難しいと思いますね。文化背景をひと通り熟知して、一旦自分を同じ環境に置いてみないと、無理でしょう。

俳句は中国でも紹介されており、日本通の中には、俳句ファンも少なくないようですが、中国語に翻訳あされた俳句は、直訳は軒並み下手です。たまにうまいなと唸らせられる句もありますが、大抵情報を補完して、漢詩風にアレンジしていますね。
それもそのはず、直訳だと情報量が少なすぎる上、中国語になっているので、読み手は中国の美意識をもって、中国語として読むわけですね。そうするとやはりあっさりしすぎて、今ひとつ深みがありませんね。

また、漢俳なるものを作る人たちもいますが、それはあくまでも俳句の575の形式を借りるだけで、実際、中味を見るとやはり漢詩ですね。昔の中国文化部長でしたっけ?劉徳有さんは有名な日本通で、「雪融花報春 俳人雅集一家親 歌吟表寸心」といった佳作をたくさんお持ちの方ですが、これを逆に日本語に訳そうものなら、「雪融けて花は春を告げん 身内のごとき俳人の集い 歌を吟じて寸心を表さん」になるそうです。17文字にとても収まりそうもありませんね。

_ why ― 2010-11-28 23:02:29

思いつきでだらだら書いていたら、長くなりすぎて、見直すのも億劫になってしまいました。
誤字脱字があったらご勘弁下さい。一息入れてからまた来直しますね。

_ T.Fujimoto ― 2010-12-02 08:10:05

whyさん、知らなかったのですが、漢俳というのもあのですね。ぱっと見た感じ、やはり俳というよりは漢文、漢詩のような気がしますが。
日本にも漢詩を書く人はたくさんいました。上手下手はありましょうが、概ね漢詩の体はしているように、僕は見えます。
そういう意味で、ちょっと別な角度もあります。
ルーツは古いはずですが、俳句自体の歴史は短いです。季があって、五七五調を取り、花鳥風月を詠む、というのがルールです。季語のない新俳句を、例えば虚子は、決して否定していないが、俳句ではない別の文学だと思う、というようなことを言っています。和の神髄をよく体現しているのは事実かと思いますが、和のすべてではないですね。
最近は標語でも五七五が多くなっていますが、くずした感じの五七五調は、斜めから世の中を見る感じがして、あまり相応しくない場合が多いように感じます。「注意一秒、後悔一生」のようなものが、よほどピンとくる気がします。

_ 幸花 ― 2011-10-10 02:28:15

Fujimoto 様。 
現在、高浜虚子について調査していた所、貴方のページを見つけました。高浜虚子が、俳句を英訳することに対してどう考えていたのか、、、とても興味深い話だと思いました。もう少し詳しくそのことについて読んでみたいと思うのですが、どの文献や文書等、参考にしたらよろしいでしょうか?又、もしもFujimoto 様がご存知でしたら、更に詳しい情報等をご教示いただけますでしょうか?

_ T.Fujimoto ― 2011-10-10 09:15:22

幸花さま、僻地までお訪ね、ありがとうございます。
僕は研究者ではなく、高浜虚子について特に詳しいわけではありませんが、コメントでもあげた「俳談」(手元にあるのは岩波文庫版)は、座談会などにおける虚子の発言を再編集してまとめたもので、その人となり、考え方がよくわかるような気がします。同じ岩波文庫の「回想 子規・漱石」もおもしろいと思います。
研究書も坊間からいろいろ出ているかと思いますが、すみません、まだ読んだことがないですので。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://tbbird.asablo.jp/blog/2010/09/30/5379220/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。