40年前の凱旋門賞(2)2010-09-27 07:58:06

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 前の記事で、「ササフラが勝った1970年の凱旋門賞」と書きましたが、1970年の凱旋門賞はササフラのレースというより、やはり名馬ニジンスキー(Nijinsky)が初めて敗退したレースとして人々に記憶されているのでしょう。

 1970年、いまから40年前、大阪万博が行われ、よど号ハイジャック事件が発生し、三島由紀夫が切腹自決した年です。
 その年の凱旋門賞はいつものように秋のロンシャン競馬場で行われましたが、出走頭数15頭は、その時代の凱旋門賞としてはかなり少ない部類です。
 理由のひとつに、ニジンスキーはあまり傑出していて、勝負にならないと考えた陣営が多かったかも知れません。そう考えたとしても不思議なことではなく、ニジンスキーは凱旋門賞前まで、2000ギニー、ダービー、セントレジャーの英クラシック3冠を含めて11戦11勝、出走したすべてのレースを楽勝してきたわけですから。
 栄光を目指して欧州各国から集まった錚々たるメンバーのなかに入っても、ニジンスキーのオッズは4対10、日本流で言えば単勝が1.4倍という抜けた支持率でした。1956年のリボー(1.6倍)、1965年のシーバード(2.2倍)、1971年のミルリーフ(1.7倍)、1985年のダンシングブレーブ(2.1倍)など、歴代の大本命馬と較べても、ニジンスキーの人気ぶりは明白です。

 しかし心配された点もありました。
 当初のプランになかったセントレジャーの出走も含めて、デビューから1年間で11レースも走り、その疲れがわずかながら噂されていました。しかし、それはレースが終わったあとだから言えるもので、ニジンスキーに限ってはよもやの負けはないだろう、という見方が大勢を占めていたようです。
 最後の直線、先行するミスダンを馬場の真ん中からササフラが追いかけ、そのさらに外からニジンスキーが捉えようとした瞬間まで、そのように見えたかも知れません。
 しかし、ニジンスキーの伸びは案外なものでした。あるいは、ゴールドカップなどを勝った父Sheshoonの血を受け継ぐササフラのスタミナが強靱だったか、数秒の間、両馬は等間隔のまま繋がり、やがてササフラが頭差のままのリードを守ったままゴール板まで凌ぎ切りました。

 絶対ということはどこにもないです。不世出の天才ダンサー、ワスラフ・ニジンスキーから名前を取った不世出の名馬が、はじめての敗北を喫した40年前のレースの映像と写真を見ながら、不思議な感じがしながら、改めて思いました。

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