福島の馬と写真家2012-05-14 23:28:58

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 横浜に住む馬好きによれば、この前の子供の日、根岸競馬記念公苑では「相馬野馬追」を紹介するイベントがあったそうです。

 むかし野馬追祭は5月中の申の日に行われるものですが、旧暦だったので、いまでは7月の行事としてあらためています。
 その歴史は古く、相馬氏の遠祖・平将門まで遡ると言われています。元享三年(1323年)、相馬孫五郎重胤が下総より奥州行方郡に封を移し、雲雀ヶ原で行われるようになったのが、いまの相馬野馬追の起源だそうです。
 雑誌「太陽」の1971年の11月号がいま手元にあります。「馬と人と大地の祭り」と題し、大判の写真とともに、古山高麗雄が相馬野馬追について書いた文章が掲載されています。上の話はその受け売りです。
 記事の写真は秋山忠右と佐藤晴雄によるものです。佐藤晴雄は存知しておりませんが、秋山忠右は「くにざかい」などを撮った、素晴らしい社会派写真家で知られています。だいぶ若い頃の写真でしたね。

 「馬を飼う相馬地方の家は、年々減少の途をたどっている。原町市についていえば、昭和37年には686頭いた馬が、45年には五分の一足らずの128頭に減ってしまった。」と記事にあります。
 現在では、さらに減ってしまったのではないでしょうか。本祭りでは500頭もの馬が集められ、規模としては国内最大ですが、多くは関東圏からのレンタルになったようです。


 さて、冒頭の写真は、石原徳太郎によって刊行された「大日本博覧絵」という銅版画集の1ページです。「福島県 産馬会社」と題がつけられていますが、描かれているのは、明治初期、労働力としての優秀な馬を生産、育成する目的で設立された「須賀川産馬会社」です。

 「近代デジタルライブラリー」を眺めたときに見つけた1枚(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/853938)ですが、調べてみたら、その下図となっている写真が地元に残されているそうです。撮ったのは写真師の松崎晋二、明治9年5月31日に撮影されたものです。

 この松崎晋二は、僕は出久根達郎の随筆で知りました。
 わが国最初の従軍写真師だそうです。と言っても日清戦争や日露戦争ではなく、明治7年の、いわゆる台湾出兵(宮古島の漁船が難破し、台湾に漂着して殺害されました。新政府不平士族の不満をそらすために出兵を強行したと言われている)のときです。
 松崎晋二はその台湾の写真と、小笠原で撮影した写真を、一般向けに売りに出しました。いまはほとんど残っていないらしいですが。
 松崎晋二は「写真必用写客の心得」という小冊子も出版しています。こちらは「近代デジタルライブラリー」にあり、一応読むことができました。

 明治9年の東北・北海道巡幸に際し、松崎は福島県庁からの依頼により半田銀山・二本松製糸会社など県内の殖産興業施設や名所旧跡を事前に撮影して天覧に供しておりましたが、そのなかの1枚が上記の須賀川産馬会社の写真でした。


 むかし福島県は馬産地として有名でした。

 僕が競馬を見始めた頃、CBC賞など重賞を3勝したトーアファルコン(http://db.netkeiba.com/horse/1981100431/)は、当時すでに珍しくなった福島県産の活躍馬として知られていました。
 名馬ビワハヤヒデも表記上は福島県産ですが、こちらは輸入馬の母馬が北海道に運ぶ前に産気づいてしまい、急遽福島県桑折町にある早田牧場本場で出産させたためです。交配はアメリカで行われた、いわゆる持込み馬です。

 福島の浜通りには馬産で知られる双葉郡葛尾村がありますが、去年の震災および原発事故の影響により、残念ながら、葛尾村で唯一残っていた篠木牧場は、廃業に追い込まれたそうです。
 もしかして、福島県産馬が競馬場で走ることは、今後、もうなくなるかも知れません。