瀬戸内の大海賊時代(2)2010-11-30 23:21:17

 藤原純友は摂関家に近い系譜を引く名門の出、右大弁だった藤原遠経の孫だと言います。
 「海と水軍の日本史」(佐藤和夫、原書房)によれば、「従五位下の叙位、乱の発生から収息にいたるまでの、政府の純友への慎重な対応の仕方などからみて、中央貴族出身とみるのが妥当であろう。」
 「海賊集団の統率力の背景に摂関家家人としてのパイプが有効に働き、貴種なるがゆえに土着豪族の集結が可能であったといえようか。」

 しかしもうひとつ、純友は実は伊予の豪族・高橋友久の子、越智一族の出(伊予の高橋氏は越智氏に繋がる系譜)、という説もあります。ことの経緯から見て、純友が伊予と深い地縁、血縁があったのは、ほぼ間違いないです。
 歴史推理小説等を多数著した邦光史郎氏は、純友のもとには越智氏の三島水軍の本流からあぶれ者、落ちこぼれ海賊が集まっただろう、としています。史料的な根拠は若干薄いですが、この説は、僕にはおもしろいように思えます。

 純友の次将だった佐伯是基は、日振島から30キロ離れた九州側の佐伯の出身です。たぶん、九州東岸の海賊もかなり純友軍に参加したのでしょう。宗像系、安曇系だけでなく、隼人系も参加していたかも知れませんし、前回書いたような、新羅海賊まで含まれていたかも知れません。(前記「海と水軍の日本史」によれば、「宗像水軍なども、純友軍に便宜を図った節がある。」)
 豪族の出とは言え、摂関家にパイプを持つほどの貴種でないとすれば、これほど大規模の水軍を組織できたのは、純友自身に強いカリスマ性があったかも知れません。

 ですが、純友個人の怨念や不満だけなら、やはり反乱は長続きしなかったのでしょう。
 「やはり慢性的な飢餓に苦しみ、定住する土地のない『漂海民』として卑賤されてきた人たちの、日ごろの不満が爆発したのではないか。そうでなければ、あれだけの海民を集結して二年間もヤマト王朝と闘うことはできなかったのではないか。」と、沖浦和光が「瀬戸内の民俗史 ~海民史の深層をたずねて」で書いた通りだと、僕も読みながら、そのような気がします。