瀬戸内の大海賊時代(1)2010-11-22 11:12:19

 大海賊時代と言っても、「ワンピース」の話ではありません。帆船全盛時代の瀬戸内海の賑やかな光景と、そこで発展されていた海と海民の文化は、現代の我々には想像するしかないものとなりました。

 瀬戸内に海賊が出没する記録は、九世紀頃まで遡ることができます。
 有史以前から、なんとか生きていくための家族集団を中心とした、自己防衛的な小グループはあったかと思われます。古代国家が成立した頃、各地の海民集団の勢力が形成され、存在基盤を維持拡大するために、陸の権力者を襲う積極的な海賊行動が起きるようになったようです。
 このような海人ないし水軍の社会がどのようなものだったかを語る史料は少ないですが、「海の道 海の民」(大林太良、小学館)の引用を見ると、869年、讃岐で海賊の男2人、女2人が捉えられた記録が残っています。船を家とし、夫婦が共稼ぎで、漁業を営みながら、食うものなどに困ったら、沖ゆく船をかすめとった程度のものだったように思われます。
 しかし、930年代の承平年間になると、賊船千余艘が海上で官物を奪取するまでに至ったようです。紀淑人(きのよしひと)が「伊予守」兼「追捕南海道使」に任じられ、海賊制圧に乗り出した、と言われているがその頃です。この段階、海賊たちが狙っているのは、主に京へコメを輸送する貢納船です。

 「瀬戸内の民俗史 ~海民史の深層をたずねて」(沖浦和光、岩波新書)の分類によれば、その後、初期の海賊性を脱して、水先案内をやって警固料を徴収する「島衆」「沖衆」と呼ばれる海上勢力になったのが、第三段階です。この段階では、リーダーとして「海の武士」も現れます。
 そして、中世も後期に入って、陸の強大勢力と結びつき、強力な火器を備えるようになったのが第四段階で、「水軍」と呼ばれるようになったのも、この第四段階です。

 有名な藤原純友の反乱は、この分類で言えば、第二段階の後期に発生した、海賊集団の決起となります。
 瀬戸内海全域に勢力を伸ばした大海賊・藤原純友は、関東で平将門が反乱したのと呼応するように、瀬戸内の海賊を率いて乱を起こしました。その勢力は畿内に及び、平定されるまでに2年もかかったそうです。
 豊後水道をのぞむ日振島に集結した千余艘が、純友の主力だそうですが、朝鮮史家旗田巍の推測によれば、その海賊集団のなかには新羅の海賊も入っていたかも知れません。
 確固たる証拠はないですが、「予章記」にも三韓から来た鉄人の残党が河野氏に従う海士になったと記され、雑多な構成の海人のなかに、新羅の海賊が含まれていた可能性も、確かに考えられます。