南の島にて2010-11-10 07:53:14


 インド洋の小さな島から日本に戻ってきて、そろそろ1週間が経とうとしています
 なぜ海がこんな色をしているかはよくわかりませんが、無修正です。歩いて一周しても10分は掛からない、本当に小さな島ですが、そこで見た海と星空の美しさは、後々まで忘れられそうにないものです。





ワンピースの謎2010-11-17 02:05:38

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 ひとつなぎの大秘宝とは何か、どこに隠されているのでしょうか?
 「ONE PIECE(ワンピース) GREEN」(ジャンプコミックス、尾田栄一郎)を読みながら、考えてみました。

 大いなる夢を胸に、偉大なる航路(グランドライン)を発った麦わらのルフィ一味でしたが、求める大秘宝は、果たして本当にグランドラインの終点ラフテルにあるのでしょうか?
 この地名を物語に登場させた以上、ルフィたちは、いつかはラフテルに到達するはずです。しかし秘宝は本当に噂通り、風説通り、航路の終点・ラフテルにあるのでしょうか?一筋縄に行かないのがこのストーリーの常道です。

 グランドラインの入り口で、無数の海賊たちが偉大なる航路に入ることを見送ったクロッカスは、かつて海賊王ロジャーの元主治医、そして最後の航海をともにした乗組員でした。
 「あいつらは…、我々の待ち望んだ海賊達だろうか?なんとも不思議な空気を持つ男だ。なァ…、ロジャーよ」
 ロジャーの旧知であるクロッカスが、ワンピースについてなにかを知っているのではないでしょうか?

 偉大な海を唯一制覇した海賊王のクルーが、もし新大陸を発見しただけでなく、地球を一周してやがてグランドライン入り口の双子岬に戻っていたなら、ひとつなぎの大秘宝の謎がそこに隠されても不思議ではないかも?


 そして、そもそも「ひとつなぎ」とは何を意味しますか?

 世界政府や五老星がひたすら隠そうとしている空白の百年とは、なんらかの関係があるかも知れません。
 空白の百年に起きていたある忌まわしい出来事によって、古代都市シャンドラが滅亡したようです。ばらばらに分裂した4つの海と民を、再びひとつ(ワンピース)に繋ぐことができるのが、かつて海賊王が手にした大秘宝の正体なのかも知れません。

 ロジャーに関わった者は徹底的に刑に処されたが、やがてDの意志を受け継ぐルフィと麦わらの一味が、ふたたびワンピースを手にし、そしてすべての謎を解明してくれる、その展開をとても楽しみにしています。

瀬戸内の大海賊時代(1)2010-11-22 11:12:19

 大海賊時代と言っても、「ワンピース」の話ではありません。帆船全盛時代の瀬戸内海の賑やかな光景と、そこで発展されていた海と海民の文化は、現代の我々には想像するしかないものとなりました。

 瀬戸内に海賊が出没する記録は、九世紀頃まで遡ることができます。
 有史以前から、なんとか生きていくための家族集団を中心とした、自己防衛的な小グループはあったかと思われます。古代国家が成立した頃、各地の海民集団の勢力が形成され、存在基盤を維持拡大するために、陸の権力者を襲う積極的な海賊行動が起きるようになったようです。
 このような海人ないし水軍の社会がどのようなものだったかを語る史料は少ないですが、「海の道 海の民」(大林太良、小学館)の引用を見ると、869年、讃岐で海賊の男2人、女2人が捉えられた記録が残っています。船を家とし、夫婦が共稼ぎで、漁業を営みながら、食うものなどに困ったら、沖ゆく船をかすめとった程度のものだったように思われます。
 しかし、930年代の承平年間になると、賊船千余艘が海上で官物を奪取するまでに至ったようです。紀淑人(きのよしひと)が「伊予守」兼「追捕南海道使」に任じられ、海賊制圧に乗り出した、と言われているがその頃です。この段階、海賊たちが狙っているのは、主に京へコメを輸送する貢納船です。

 「瀬戸内の民俗史 ~海民史の深層をたずねて」(沖浦和光、岩波新書)の分類によれば、その後、初期の海賊性を脱して、水先案内をやって警固料を徴収する「島衆」「沖衆」と呼ばれる海上勢力になったのが、第三段階です。この段階では、リーダーとして「海の武士」も現れます。
 そして、中世も後期に入って、陸の強大勢力と結びつき、強力な火器を備えるようになったのが第四段階で、「水軍」と呼ばれるようになったのも、この第四段階です。

 有名な藤原純友の反乱は、この分類で言えば、第二段階の後期に発生した、海賊集団の決起となります。
 瀬戸内海全域に勢力を伸ばした大海賊・藤原純友は、関東で平将門が反乱したのと呼応するように、瀬戸内の海賊を率いて乱を起こしました。その勢力は畿内に及び、平定されるまでに2年もかかったそうです。
 豊後水道をのぞむ日振島に集結した千余艘が、純友の主力だそうですが、朝鮮史家旗田巍の推測によれば、その海賊集団のなかには新羅の海賊も入っていたかも知れません。
 確固たる証拠はないですが、「予章記」にも三韓から来た鉄人の残党が河野氏に従う海士になったと記され、雑多な構成の海人のなかに、新羅の海賊が含まれていた可能性も、確かに考えられます。

瀬戸内の大海賊時代(2)2010-11-30 23:21:17

 藤原純友は摂関家に近い系譜を引く名門の出、右大弁だった藤原遠経の孫だと言います。
 「海と水軍の日本史」(佐藤和夫、原書房)によれば、「従五位下の叙位、乱の発生から収息にいたるまでの、政府の純友への慎重な対応の仕方などからみて、中央貴族出身とみるのが妥当であろう。」
 「海賊集団の統率力の背景に摂関家家人としてのパイプが有効に働き、貴種なるがゆえに土着豪族の集結が可能であったといえようか。」

 しかしもうひとつ、純友は実は伊予の豪族・高橋友久の子、越智一族の出(伊予の高橋氏は越智氏に繋がる系譜)、という説もあります。ことの経緯から見て、純友が伊予と深い地縁、血縁があったのは、ほぼ間違いないです。
 歴史推理小説等を多数著した邦光史郎氏は、純友のもとには越智氏の三島水軍の本流からあぶれ者、落ちこぼれ海賊が集まっただろう、としています。史料的な根拠は若干薄いですが、この説は、僕にはおもしろいように思えます。

 純友の次将だった佐伯是基は、日振島から30キロ離れた九州側の佐伯の出身です。たぶん、九州東岸の海賊もかなり純友軍に参加したのでしょう。宗像系、安曇系だけでなく、隼人系も参加していたかも知れませんし、前回書いたような、新羅海賊まで含まれていたかも知れません。(前記「海と水軍の日本史」によれば、「宗像水軍なども、純友軍に便宜を図った節がある。」)
 豪族の出とは言え、摂関家にパイプを持つほどの貴種でないとすれば、これほど大規模の水軍を組織できたのは、純友自身に強いカリスマ性があったかも知れません。

 ですが、純友個人の怨念や不満だけなら、やはり反乱は長続きしなかったのでしょう。
 「やはり慢性的な飢餓に苦しみ、定住する土地のない『漂海民』として卑賤されてきた人たちの、日ごろの不満が爆発したのではないか。そうでなければ、あれだけの海民を集結して二年間もヤマト王朝と闘うことはできなかったのではないか。」と、沖浦和光が「瀬戸内の民俗史 ~海民史の深層をたずねて」で書いた通りだと、僕も読みながら、そのような気がします。