黄金の跡地に幸福が走っていた ― 2010-04-06 01:14:58
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オーロパークの愛称を持つ、いまの盛岡競馬場が完成したのは1996年(平成8年)です。新競馬場のオープンに伴い、高松の池に隣接する旧・盛岡競馬場は65年間の歴史に幕を閉じ、廃用となりました。
旧・盛岡競馬場の跡地は現在、公園ゾーン、保健・福祉ゾーン、環境ゾーンなどに区分けして、徐々に整備されているようですが、上の写真は僕が1996年の夏に撮った写真です。まだ閉場して間がなく、観客席や走路がそのまま残っていました。
旧・盛岡競馬場ができたのは昭和8年です。
当時の盛岡競馬は政府公認を目指し、走路を帝国競馬協会が定める規模にするため、元々の「黄金競馬場」(旧・旧盛岡競馬場)を廃用にし、新たに高松池近くの毛無森に「新黄金競馬場」を急ピッチで完成したものです。
なぜ盛岡競馬場の名前が「黄金」に拘るか、その理由はわかりませんが、いまのオーロパークもまた黄金競馬場です。ラテン語で黄金を意味するaureoに由来すると思われます。
さて、昭和8年の11月「新黄金競馬場」で最初に行われたレースは繋駕(けいが)速歩競走だったそうです。繋駕速歩というのは、1人乗りの馬車に騎手が乗って操縦する形態のレースです。当時は馬の資源が少なく、出走間隔が少なくて済む速歩競走は全国各地に行われていました。なかでも特に岩手競馬は繋駕速歩レースの数が多く、年を追って徐々に編成が減らされながらも、延々と1971年まで続いていたようです。
そして、その最初のレースをめでたく勝ったのが、「コウフク」号という馬だったそうです。降服なのか幸福なのか、いまいちはっきりしませんが、なにしろめでたい日だったので、きっと後者なのでしょう。
オーロパークの愛称を持つ、いまの盛岡競馬場が完成したのは1996年(平成8年)です。新競馬場のオープンに伴い、高松の池に隣接する旧・盛岡競馬場は65年間の歴史に幕を閉じ、廃用となりました。
旧・盛岡競馬場の跡地は現在、公園ゾーン、保健・福祉ゾーン、環境ゾーンなどに区分けして、徐々に整備されているようですが、上の写真は僕が1996年の夏に撮った写真です。まだ閉場して間がなく、観客席や走路がそのまま残っていました。
旧・盛岡競馬場ができたのは昭和8年です。
当時の盛岡競馬は政府公認を目指し、走路を帝国競馬協会が定める規模にするため、元々の「黄金競馬場」(旧・旧盛岡競馬場)を廃用にし、新たに高松池近くの毛無森に「新黄金競馬場」を急ピッチで完成したものです。
なぜ盛岡競馬場の名前が「黄金」に拘るか、その理由はわかりませんが、いまのオーロパークもまた黄金競馬場です。ラテン語で黄金を意味するaureoに由来すると思われます。
さて、昭和8年の11月「新黄金競馬場」で最初に行われたレースは繋駕(けいが)速歩競走だったそうです。繋駕速歩というのは、1人乗りの馬車に騎手が乗って操縦する形態のレースです。当時は馬の資源が少なく、出走間隔が少なくて済む速歩競走は全国各地に行われていました。なかでも特に岩手競馬は繋駕速歩レースの数が多く、年を追って徐々に編成が減らされながらも、延々と1971年まで続いていたようです。
そして、その最初のレースをめでたく勝ったのが、「コウフク」号という馬だったそうです。降服なのか幸福なのか、いまいちはっきりしませんが、なにしろめでたい日だったので、きっと後者なのでしょう。
降服の跡地に黄金が飛んでいた ― 2010-04-08 00:21:57
オーロパークは黄金競馬場ですが、英語のちょっと古めかしい使い方で、蝶の好きな人を「オーレリアン(aurelion)」と呼ぶ言い方があるようです。
蝶マニアをオーレリアンと呼ぶのは、奥本大三郎の随筆によれば、蝶の蛹に金色の紋をちらしたものがあるからだそうです。蛹のことを「クリサリス(chrysalis)」と言いますが、chrys(o)もそもそもは「金」を意味するギリシャ語なのです。
日本のタテハチョウの蛹の金箔はつつましく感じてしまうほど、台湾のオオムサキマダラなどは、覗き込む人の顔が写るほど、金属の光沢がすごいです。
そのピカピカの蛹から出てくるオオムサキマダラも、濃い紫の大きな翅を持つ豪華蝶です。オオムサキマダラに限らず、現地で「鳳蝶」と呼ぶ大型蝶は何種類もあって、台湾が日本に統治されていた時代から人気があって、大量に捕獲されていました。
先日にモーナ・ルーダオ(Mona Rudao、莫那魯道)の霧社事件を書きました(http://tbbird.asablo.jp/blog/2010/02/15/4881027)が、惨劇の舞台になっている南投県霧社から埔里(いまは台中県)のあたりが、まさに蝶類の大産地でした。
僕が小学生になったかならなかったのとき、埔里に連れて行ってもらったことがあります。ちょうど蝶捕獲の全盛期だったと思いますが、山間に住む採取人が大量に蝶類を捕まえて、ビニール袋かなんかに入れてほとんど目方で売るようです。埔里の加工工場に集められた夥しい蝶は、標本にだけでなく、コップ敷きなど、色鮮やかな翅だけを使って、土産店に売られるような品もたくさん作られていました。
何十年もそんなことをしていて、蝶の数が一向に減らないのは、どこか人間の知らない黄金郷があって、金色燦然な蛹が累々とぶら下がっていたんだろう、と言われていました。
しかしその蝶の加工工芸品も、近年ではすっかり廃れてしまったようです。
蝶マニアをオーレリアンと呼ぶのは、奥本大三郎の随筆によれば、蝶の蛹に金色の紋をちらしたものがあるからだそうです。蛹のことを「クリサリス(chrysalis)」と言いますが、chrys(o)もそもそもは「金」を意味するギリシャ語なのです。
日本のタテハチョウの蛹の金箔はつつましく感じてしまうほど、台湾のオオムサキマダラなどは、覗き込む人の顔が写るほど、金属の光沢がすごいです。
そのピカピカの蛹から出てくるオオムサキマダラも、濃い紫の大きな翅を持つ豪華蝶です。オオムサキマダラに限らず、現地で「鳳蝶」と呼ぶ大型蝶は何種類もあって、台湾が日本に統治されていた時代から人気があって、大量に捕獲されていました。
先日にモーナ・ルーダオ(Mona Rudao、莫那魯道)の霧社事件を書きました(http://tbbird.asablo.jp/blog/2010/02/15/4881027)が、惨劇の舞台になっている南投県霧社から埔里(いまは台中県)のあたりが、まさに蝶類の大産地でした。
僕が小学生になったかならなかったのとき、埔里に連れて行ってもらったことがあります。ちょうど蝶捕獲の全盛期だったと思いますが、山間に住む採取人が大量に蝶類を捕まえて、ビニール袋かなんかに入れてほとんど目方で売るようです。埔里の加工工場に集められた夥しい蝶は、標本にだけでなく、コップ敷きなど、色鮮やかな翅だけを使って、土産店に売られるような品もたくさん作られていました。
何十年もそんなことをしていて、蝶の数が一向に減らないのは、どこか人間の知らない黄金郷があって、金色燦然な蛹が累々とぶら下がっていたんだろう、と言われていました。
しかしその蝶の加工工芸品も、近年ではすっかり廃れてしまったようです。
十四、五年ひと昔前 ― 2010-04-28 23:00:24
2週間前の4月14日、netkeiba.comで読める合田直弘氏のコラムは、次のように結んでいました。
「引退までに彼女があと何戦するかわからないが、機会がある方はぜひ、ゼニヤッタが走る日の競馬場にお出かけになることをお薦めしたい。競馬ファンとして、至福の時間を楽しめるはずである。」
G1アップルブロッサムHを楽勝して、ゼニヤッタ(Zenyatta)は連勝を16に伸ばし、この数字はあのシガー(Cigar)の記録に並ぶものです。
シガーと言えばまだ記憶に新しい、と一瞬は勘違いもしたが、16連勝を達成したのは1996年、その前に10戦10勝というパーフェクトの成績を残したのは1995年でした。
Sports Illustratedから出しているスポーツ年鑑、たまたまその1996年版だけ買ってあって、いまも手元にあります。
ページを開くと、競馬部門のトップページは「Victory Cigar」の表題の下、マッサチューセッツHを激走するシガーの写真が飾られています。
フィギュアスケートのトップページは世界選手権で優勝した中国の「氷上胡蝶」陳露でしたし、あのRoy Jones, Jr.がまだIBFスーパーミドル級チャンピオンで、カラーページにはメジャーリーグに新風を巻き起こしたルーキーとして、野茂英雄の写真が大きく掲載されています。
つまり、もうひと昔ふた昔も前のこととなりました。
しかし、アメリカの競馬で Cigarの前に16連勝した馬はと言えば、実は1945年生まれのサイテーション(Citation)まで遡らなければなりません。シガーからゼニヤッタまでは十四、五年ですが、サイテーションからシガーまでは実に四、五十年の歳月を要してました。
そう考えると、16連勝もする歴史的名馬2頭と同時代を生きたというのは、ラッキーなのかも知れません。
サイテーションとシガー、偶然どちらも連勝は16でストップしてしまったのですが。
「引退までに彼女があと何戦するかわからないが、機会がある方はぜひ、ゼニヤッタが走る日の競馬場にお出かけになることをお薦めしたい。競馬ファンとして、至福の時間を楽しめるはずである。」
G1アップルブロッサムHを楽勝して、ゼニヤッタ(Zenyatta)は連勝を16に伸ばし、この数字はあのシガー(Cigar)の記録に並ぶものです。
シガーと言えばまだ記憶に新しい、と一瞬は勘違いもしたが、16連勝を達成したのは1996年、その前に10戦10勝というパーフェクトの成績を残したのは1995年でした。
Sports Illustratedから出しているスポーツ年鑑、たまたまその1996年版だけ買ってあって、いまも手元にあります。
ページを開くと、競馬部門のトップページは「Victory Cigar」の表題の下、マッサチューセッツHを激走するシガーの写真が飾られています。
フィギュアスケートのトップページは世界選手権で優勝した中国の「氷上胡蝶」陳露でしたし、あのRoy Jones, Jr.がまだIBFスーパーミドル級チャンピオンで、カラーページにはメジャーリーグに新風を巻き起こしたルーキーとして、野茂英雄の写真が大きく掲載されています。
つまり、もうひと昔ふた昔も前のこととなりました。
しかし、アメリカの競馬で Cigarの前に16連勝した馬はと言えば、実は1945年生まれのサイテーション(Citation)まで遡らなければなりません。シガーからゼニヤッタまでは十四、五年ですが、サイテーションからシガーまでは実に四、五十年の歳月を要してました。
そう考えると、16連勝もする歴史的名馬2頭と同時代を生きたというのは、ラッキーなのかも知れません。
サイテーションとシガー、偶然どちらも連勝は16でストップしてしまったのですが。
星を割いてしまう程巨大になる木 ― 2010-04-29 15:52:34
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ペプシコーラから、バオバブをモチーフとした「ペプシバオバブ」が、季節限定で5月25日から発売されるそうです。(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100428-00000015-oric-ent)
1749年、南フランス生まれの若い植物学者ミッシェル・アダンソンは、ヴェルデ岬に近いマドレーヌ諸島で、一本のバオバブを目にして、その異様さ、大きさに溜息をつく思いでした。
やや寸詰まりで太腹の幹を持つその大樹は、周囲が30メートルにも達そうかという偉容を見せ、セネガル人が「千年の木」、すなわちバオバブと呼ぶのは、これに違いない、とアダンソンはすぐにわかったはずです。
小学生から中学生の頃、切手集めに熱を入れた時期があって、上の写真はそのコレクションの1枚、マダガスカルの切手です。下に「MORONDAVA」の文字が見えますが、チュレアールに次ぐマダガスカル西部第2の町モロンダバのことで、バオバブの並木道があることでも知られています。枝葉が茂るバオバブの大樹と帆掛け舟、どうやらこれはモロンダバの紋章のようです。
バオバブは12種類ぐらいあって、アフリカ大陸にはミッシェル・アダンソンが見たアダンソニア・ディギタータ(Adansonia digitata)の1種類だけで、そのほかはオーストラリアに1種類、残りはすべてマダカスカル産です。国章にバオバブを入れているセネガルと中央アフリカには申し訳ないですが、多種多様さも含めて言えば、マダカスカル島こそがバオバブの本場じゃないかと思ってしまいます。
さて、アンダンソンは結局バオバブのある国で五年間も滞在して、こまかくそれを観察し、発表しました。のちにリンネがバオバブの属名をアダンソニアとしたのもそのためです。
しかし西欧人がバオバブを発見しようかしまいかに関係なく、現地の人たちははるか昔からこの巨木を知り、様々な形で利用してきたようです。太い幹は旱魃をしのぐ貯水塔で、木の新芽はそのまま汁の具になるし、実は酸っぱいけれど、甘みを加えてデザートにもなります。先祖代々が何千年も近くに住んで、ずっとバオバブを見ているのだから、当然なのかも知れません。
さすがコーラに混ぜて飲むことはしていなかったと思いますが。
ペプシコーラから、バオバブをモチーフとした「ペプシバオバブ」が、季節限定で5月25日から発売されるそうです。(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100428-00000015-oric-ent)
1749年、南フランス生まれの若い植物学者ミッシェル・アダンソンは、ヴェルデ岬に近いマドレーヌ諸島で、一本のバオバブを目にして、その異様さ、大きさに溜息をつく思いでした。
やや寸詰まりで太腹の幹を持つその大樹は、周囲が30メートルにも達そうかという偉容を見せ、セネガル人が「千年の木」、すなわちバオバブと呼ぶのは、これに違いない、とアダンソンはすぐにわかったはずです。
小学生から中学生の頃、切手集めに熱を入れた時期があって、上の写真はそのコレクションの1枚、マダガスカルの切手です。下に「MORONDAVA」の文字が見えますが、チュレアールに次ぐマダガスカル西部第2の町モロンダバのことで、バオバブの並木道があることでも知られています。枝葉が茂るバオバブの大樹と帆掛け舟、どうやらこれはモロンダバの紋章のようです。
バオバブは12種類ぐらいあって、アフリカ大陸にはミッシェル・アダンソンが見たアダンソニア・ディギタータ(Adansonia digitata)の1種類だけで、そのほかはオーストラリアに1種類、残りはすべてマダカスカル産です。国章にバオバブを入れているセネガルと中央アフリカには申し訳ないですが、多種多様さも含めて言えば、マダカスカル島こそがバオバブの本場じゃないかと思ってしまいます。
さて、アンダンソンは結局バオバブのある国で五年間も滞在して、こまかくそれを観察し、発表しました。のちにリンネがバオバブの属名をアダンソニアとしたのもそのためです。
しかし西欧人がバオバブを発見しようかしまいかに関係なく、現地の人たちははるか昔からこの巨木を知り、様々な形で利用してきたようです。太い幹は旱魃をしのぐ貯水塔で、木の新芽はそのまま汁の具になるし、実は酸っぱいけれど、甘みを加えてデザートにもなります。先祖代々が何千年も近くに住んで、ずっとバオバブを見ているのだから、当然なのかも知れません。
さすがコーラに混ぜて飲むことはしていなかったと思いますが。
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