遣唐使の国際結婚 ― 2008-12-22 23:09:43
先日、錢起の漢詩を写したところ(http://tbbird.asablo.jp/blog/2008/11/26/3976716)、whyさんよりコメントを頂き、中国に住み着いた遣唐使の方が現地の女性と結ばれ、国際結婚の歴史の始まりを作ったのかも、という話がありました。
ちょっと調べてみると、どうやら唐代、日本の留学生が中国の女性と結婚するのは、それほど珍しいケースではなかったようです。
第7次遣唐使の学問僧弁正は、唐の女性と結婚して朝慶・朝元という二人の男子をもうけ、朝慶は母親のそばに留まり、弟の朝元は少年の身ながら第8次遣唐使の帰国船に単身乗って来日していました。来日後、秦朝元と名乗って朝廷に仕え、さらに733年第9次遣唐使の判官として随行し渡唐していました。
第8次遣唐大使・藤原清河は唐の婦人と結婚して、66歳に一女を得て、喜娘と名付けられたこの娘は779年、宝亀の遣唐使とともに苦労して日本に帰り、父の故郷を訪ねたそうです。この話を題材にした梓沢要の小説「喜娘」は、なんかの歴史文学賞を取ったようです。
第8次遣唐副使、阿倍仲麻呂の従者として入唐した留学生羽栗吉麻呂も、やはり在唐中に翼と翔という双子を得ました。第9次遣唐使の帰国の際に、吉麻呂は二子を連れて帰国し、兄弟はその後朝廷に仕えたが、弟の翔は759年第11次遣唐使の録事として渡唐してそのまま唐土にとどまり、その後兄の翼も776年第14次遣唐使の准判官として40年ぶりに渡唐し、翌年9月に帰国したそうです。
このように、混血児たちは国際交流の先兵としても、ちゃんとその役割を果たしたのですね。
ちょっと調べてみると、どうやら唐代、日本の留学生が中国の女性と結婚するのは、それほど珍しいケースではなかったようです。
第7次遣唐使の学問僧弁正は、唐の女性と結婚して朝慶・朝元という二人の男子をもうけ、朝慶は母親のそばに留まり、弟の朝元は少年の身ながら第8次遣唐使の帰国船に単身乗って来日していました。来日後、秦朝元と名乗って朝廷に仕え、さらに733年第9次遣唐使の判官として随行し渡唐していました。
第8次遣唐大使・藤原清河は唐の婦人と結婚して、66歳に一女を得て、喜娘と名付けられたこの娘は779年、宝亀の遣唐使とともに苦労して日本に帰り、父の故郷を訪ねたそうです。この話を題材にした梓沢要の小説「喜娘」は、なんかの歴史文学賞を取ったようです。
第8次遣唐副使、阿倍仲麻呂の従者として入唐した留学生羽栗吉麻呂も、やはり在唐中に翼と翔という双子を得ました。第9次遣唐使の帰国の際に、吉麻呂は二子を連れて帰国し、兄弟はその後朝廷に仕えたが、弟の翔は759年第11次遣唐使の録事として渡唐してそのまま唐土にとどまり、その後兄の翼も776年第14次遣唐使の准判官として40年ぶりに渡唐し、翌年9月に帰国したそうです。
このように、混血児たちは国際交流の先兵としても、ちゃんとその役割を果たしたのですね。
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