【レース回顧】 2015ダービー ― 2015-06-02 20:57:37
淀みない厳しい平均ペースのなか、有力馬たちがそれぞれのポジションをキープして、ホームストレートに差し掛かりました。
2月の共同通信杯は、リアルスティールが勝ち、1番人気のドゥラメンテが2着でした。3月のスプリングステータスは、キタサンブラックが勝ち、1番人気のリアルスティールが2着でした。4月の皐月賞は、ドゥラメンテが勝ち、リアルスティール、キタサンブラックが2着と3着を占めました。
5月末のダービー、臨戦過程とこれまでの印象点から、単勝人気では差が付きましたが、もしかして実は3強で力が拮抗しているかも、とも思いました。
先行したキタサンブラックが直線で逃げ馬に並びかけようかのその瞬間、府中の長い直線に、これからどんな物語が生まれるのかなと、様々な可能性が一瞬に目の前に浮かび、テレビの前で身を構えました。
しかし、様々な可能性は、たったのひとつを除き、あっという間に音もなく消えてしまいました。本命馬のドゥラメンテがあっさりと抜け出し、その瞬間から、十数万人が集まる東京競馬場にはすでに物語がなくなりました。
激しい気性をいままで見せただけに、こうも優等生のレース運びをされるは思いませんでした。過去の幾多の名馬もが苦しんだ府中の長い直線を、ドゥラメンテは実に安定した走りで悠々と駆け抜けました。
ウェットな歴史に別れを告げ、ライバルと目された同世代の馬たちに引導を渡し、ドゥラメンテは歴史的名馬への階段を上り始めたかも知れません。
秋は菊花賞に進んで3冠の栄光を掴みに行くのか、それともロンシャンに赴き世界を相手に戦うのか、早くも坊間では次の話で盛り上がっています。
いずれにしても、このような大いなる可能性を持つ豪傑が現れることに、競馬ファンたちは心が躍ります。
スポットライトを浴びる勝者がいれば、必ず敗者もいます。
今日のニュースによれば、2番人気で4着に敗退したリアルスティールは、レース中に左第1指骨剥離骨折を発症し、これから数ヶ月の休養を要することが判明しました。
2月の共同通信杯は、リアルスティールが勝ち、1番人気のドゥラメンテが2着でした。3月のスプリングステータスは、キタサンブラックが勝ち、1番人気のリアルスティールが2着でした。4月の皐月賞は、ドゥラメンテが勝ち、リアルスティール、キタサンブラックが2着と3着を占めました。
5月末のダービー、臨戦過程とこれまでの印象点から、単勝人気では差が付きましたが、もしかして実は3強で力が拮抗しているかも、とも思いました。
先行したキタサンブラックが直線で逃げ馬に並びかけようかのその瞬間、府中の長い直線に、これからどんな物語が生まれるのかなと、様々な可能性が一瞬に目の前に浮かび、テレビの前で身を構えました。
しかし、様々な可能性は、たったのひとつを除き、あっという間に音もなく消えてしまいました。本命馬のドゥラメンテがあっさりと抜け出し、その瞬間から、十数万人が集まる東京競馬場にはすでに物語がなくなりました。
激しい気性をいままで見せただけに、こうも優等生のレース運びをされるは思いませんでした。過去の幾多の名馬もが苦しんだ府中の長い直線を、ドゥラメンテは実に安定した走りで悠々と駆け抜けました。
ウェットな歴史に別れを告げ、ライバルと目された同世代の馬たちに引導を渡し、ドゥラメンテは歴史的名馬への階段を上り始めたかも知れません。
秋は菊花賞に進んで3冠の栄光を掴みに行くのか、それともロンシャンに赴き世界を相手に戦うのか、早くも坊間では次の話で盛り上がっています。
いずれにしても、このような大いなる可能性を持つ豪傑が現れることに、競馬ファンたちは心が躍ります。
スポットライトを浴びる勝者がいれば、必ず敗者もいます。
今日のニュースによれば、2番人気で4着に敗退したリアルスティールは、レース中に左第1指骨剥離骨折を発症し、これから数ヶ月の休養を要することが判明しました。
新紀元や光緒万年 ― 2015-06-14 00:33:36
中国清末の文学や思想は、実は思いのほか百花繚乱です。
碧荷館主人と名乗る作者が1908年に書いた「新紀元」という小説を、「開放文学」のページ(http://open-lit.com/bookindex.php?gbid=405)で読んでいます。
伝統的な章回小説の体裁を取りながらも、内容はまさにSFです。
1999年、立憲制を採用し、すでに世界の大国に躍進した中国は、西暦を廃止して黄帝紀元を用いることを議会で議決したことがきっかけとなり、いろいろ紛糾が拡大し、ついにドイツ、フランス、イギリスを中心とする白人の同盟国と戦争することになりました。
どうもその頃の中国には二百五十万の常備兵と、千兆の人口を有し(さすがにこれは多すぎ!)、西洋の列強からも一目を置く存在になっていたようです。同盟国との戦争も最後は中国が勝利し、12条からなる和解条約を敗戦各国に飲ませた展開です。
モンゴルの後裔であるハンガリーを保護下に置くことなどを含む、その和解条約の第3条は、以下の通り:
「三、今後、中国と同人種の国は、すべて黄帝紀元を用い、黄色人種であって中国と同人種でない国も、黄帝紀元を用いたいのであれば、各国は決して干渉せぬこと。」
条約が発効される西暦2000年3月は、黄帝紀元4707年の正月にあたるそうです。
西洋列強によって押し付けられた不平等条約に悩まされたり、無能な政府官吏に人々が怒りを感じたりする、この清王朝末のカオス時代ほど、さまざまな時間尺が交差した時代はないです。
武田雅哉氏の著書によると、 日本に留学した中国人学生たちが発行した「江蘇」誌は、「黄帝紀元4394年(西暦1903年)」の創刊だとしています。(「新紀元」の「黄帝紀元」とは二百年以上のずれがありますね。)
中国革命同盟会系の雑誌「光華報」の創刊は、「中華開国紀元4606年(1908年)」になっています。
さらに、維新派の雑誌「東亜報」は、みずからその創刊日を「孔子紀元2449年5月11日(西暦1898年6月29日にあたる)」と記しています。
一方、「新世紀」誌は古い栄光は追わず、「新世紀7年(1907年)」の創刊、としているだけです。
自らの時間尺を主張することは、自らの思想を主張することと、ほぼ等しい、かも知れません。
我佛山人こと呉趼人氏に、「光緒萬年」という風刺小説もあります。
清王朝光緒32年に、政府が立憲制の準備開始を宣告しながらも、遅々として進展しなかったのです。とある年に、彗星が地球にあわやというところでかすめ、その影響でなぜか地球の南北が逆転し、六月の真夏だったはずの中国に雪が舞い、こもりっきりで彗星を観測し、軌道計算に必死だった「偉人」が外に出てみたら、街は一気にきれいになり、人々の顔に笑みが見えました。なにがあったんだろうかと思ったら、今日から立憲制が実施された、と告げられました。
それがいつの年かというと、光緒万年だそうです。
碧荷館主人と名乗る作者が1908年に書いた「新紀元」という小説を、「開放文学」のページ(http://open-lit.com/bookindex.php?gbid=405)で読んでいます。
伝統的な章回小説の体裁を取りながらも、内容はまさにSFです。
1999年、立憲制を採用し、すでに世界の大国に躍進した中国は、西暦を廃止して黄帝紀元を用いることを議会で議決したことがきっかけとなり、いろいろ紛糾が拡大し、ついにドイツ、フランス、イギリスを中心とする白人の同盟国と戦争することになりました。
どうもその頃の中国には二百五十万の常備兵と、千兆の人口を有し(さすがにこれは多すぎ!)、西洋の列強からも一目を置く存在になっていたようです。同盟国との戦争も最後は中国が勝利し、12条からなる和解条約を敗戦各国に飲ませた展開です。
モンゴルの後裔であるハンガリーを保護下に置くことなどを含む、その和解条約の第3条は、以下の通り:
「三、今後、中国と同人種の国は、すべて黄帝紀元を用い、黄色人種であって中国と同人種でない国も、黄帝紀元を用いたいのであれば、各国は決して干渉せぬこと。」
条約が発効される西暦2000年3月は、黄帝紀元4707年の正月にあたるそうです。
西洋列強によって押し付けられた不平等条約に悩まされたり、無能な政府官吏に人々が怒りを感じたりする、この清王朝末のカオス時代ほど、さまざまな時間尺が交差した時代はないです。
武田雅哉氏の著書によると、 日本に留学した中国人学生たちが発行した「江蘇」誌は、「黄帝紀元4394年(西暦1903年)」の創刊だとしています。(「新紀元」の「黄帝紀元」とは二百年以上のずれがありますね。)
中国革命同盟会系の雑誌「光華報」の創刊は、「中華開国紀元4606年(1908年)」になっています。
さらに、維新派の雑誌「東亜報」は、みずからその創刊日を「孔子紀元2449年5月11日(西暦1898年6月29日にあたる)」と記しています。
一方、「新世紀」誌は古い栄光は追わず、「新世紀7年(1907年)」の創刊、としているだけです。
自らの時間尺を主張することは、自らの思想を主張することと、ほぼ等しい、かも知れません。
我佛山人こと呉趼人氏に、「光緒萬年」という風刺小説もあります。
清王朝光緒32年に、政府が立憲制の準備開始を宣告しながらも、遅々として進展しなかったのです。とある年に、彗星が地球にあわやというところでかすめ、その影響でなぜか地球の南北が逆転し、六月の真夏だったはずの中国に雪が舞い、こもりっきりで彗星を観測し、軌道計算に必死だった「偉人」が外に出てみたら、街は一気にきれいになり、人々の顔に笑みが見えました。なにがあったんだろうかと思ったら、今日から立憲制が実施された、と告げられました。
それがいつの年かというと、光緒万年だそうです。
【メモ】胡蝶と「上海女人」 ― 2015-06-28 11:21:50
幼い頃、台湾のテレビで「布袋戲」という人形劇を良く見ていました。
雲州大儒俠・史艷文や六合三俠シリーズの話やキャラクターが有名ですが、のちに出た「火燒紅蓮寺」という話も覚えています。
「火燒紅蓮寺」は元々映画でした。
1928年から1931年まで、明星映画公司から、なんとシリーズで計18作品も作られた、武俠映画のはしりであり、人気作品でした。
この映画の主演女優が、胡蝶でした。
胡蝶は、中国映画草創期のスター女優です。1908年上海で生まれ、天津や広州でカトリック教会の学校を学び、そして上海中華電影學校が新設されるや、16歳で応募し、その初期生となった、。
卒業後、天一という制作会社の専属になり、徐欣夫監督の「戰功」でデビューし、やがて映画会社の老舗である明星に移り、「火燒紅蓮寺」シリーズによってその人気は頂点に達しました。
監督に命じられたまま、胡蝶は細いワイヤーに吊られて空中を飛んだり、派手なアクションを演じました。
映画が大いに人気を博し、学校をやめて山奥に入り、剣客になろうとする小学生が出てきたり、社会問題にまでなったため、ついに国民政府から上映禁止命令が出されたほどです。
もっとも、胡蝶は武俠映画のほか、明星の第二スタジオで撮影された現代作品でも主演し、「火燒紅蓮寺」が打ち切られても、その人気が揺らぐことはありませんでした。当時、やはり人気があった阮玲玉はすでに明星を去り、明星製作の映画の主演はほとんど胡蝶が務めたそうです。
1933年1月、映画専門紙「明星日報」が呼びかけた「明星皇后」の投票でも、陳玉梅、阮玲玉を抑えて、胡蝶が圧倒的な投票数を集めていました。
当時の上海は諸外国の「租界」を介して、西洋の文化が輸入されていました。
上海の女性誌の記者馬尚龍によれば、上海という「人文」から「上海女人」という新しい気質が生まれていたそうです。
従来の「男尊女卑」の概念を打ち破ろうとする一方、愛嬌を振り撒き、流行に後れまいと思ったときに、「欲しい、欲しい、どうして欲しい」と連発するが、ひとたび礼儀正しくしなければと気づけば、「しない、いらない、遠慮するわ」の女性に変身するそうです。
「笑うときは歯をみせない。歩くときは素足をみせない。話すときはゆっくり。せっかちにしない。口喧嘩しない。みせびらかさない。おちこまない。高ぶらない。横から口を出さない......」(「中国という世界 ~人・風土・近代」(竹内実、岩波新書)より)
胡蝶に限らず、女優の白楊、阮玲玉ら、歌手の周璇、さらに作家の張愛玲などにも、この気質は際立って見られるそうです。
胡蝶は戦時中に香港に移り住み、1949年に夫が亡くなった後は一時期女優業から身を引きましたが、1959年に復帰し、香港や台湾で撮影されたいくつかの作品に参加しました。
そのうち、名監督李翰祥がメガホンを取った「後門」により、52歳の胡蝶は、第七回のアジア太平洋映画祭の最優秀女優賞を獲得しています。
1975年、台湾からカナダに移り、1989年に帰らぬ人となりました。
雲州大儒俠・史艷文や六合三俠シリーズの話やキャラクターが有名ですが、のちに出た「火燒紅蓮寺」という話も覚えています。
「火燒紅蓮寺」は元々映画でした。
1928年から1931年まで、明星映画公司から、なんとシリーズで計18作品も作られた、武俠映画のはしりであり、人気作品でした。
この映画の主演女優が、胡蝶でした。
胡蝶は、中国映画草創期のスター女優です。1908年上海で生まれ、天津や広州でカトリック教会の学校を学び、そして上海中華電影學校が新設されるや、16歳で応募し、その初期生となった、。
卒業後、天一という制作会社の専属になり、徐欣夫監督の「戰功」でデビューし、やがて映画会社の老舗である明星に移り、「火燒紅蓮寺」シリーズによってその人気は頂点に達しました。
監督に命じられたまま、胡蝶は細いワイヤーに吊られて空中を飛んだり、派手なアクションを演じました。
映画が大いに人気を博し、学校をやめて山奥に入り、剣客になろうとする小学生が出てきたり、社会問題にまでなったため、ついに国民政府から上映禁止命令が出されたほどです。
もっとも、胡蝶は武俠映画のほか、明星の第二スタジオで撮影された現代作品でも主演し、「火燒紅蓮寺」が打ち切られても、その人気が揺らぐことはありませんでした。当時、やはり人気があった阮玲玉はすでに明星を去り、明星製作の映画の主演はほとんど胡蝶が務めたそうです。
1933年1月、映画専門紙「明星日報」が呼びかけた「明星皇后」の投票でも、陳玉梅、阮玲玉を抑えて、胡蝶が圧倒的な投票数を集めていました。
当時の上海は諸外国の「租界」を介して、西洋の文化が輸入されていました。
上海の女性誌の記者馬尚龍によれば、上海という「人文」から「上海女人」という新しい気質が生まれていたそうです。
従来の「男尊女卑」の概念を打ち破ろうとする一方、愛嬌を振り撒き、流行に後れまいと思ったときに、「欲しい、欲しい、どうして欲しい」と連発するが、ひとたび礼儀正しくしなければと気づけば、「しない、いらない、遠慮するわ」の女性に変身するそうです。
「笑うときは歯をみせない。歩くときは素足をみせない。話すときはゆっくり。せっかちにしない。口喧嘩しない。みせびらかさない。おちこまない。高ぶらない。横から口を出さない......」(「中国という世界 ~人・風土・近代」(竹内実、岩波新書)より)
胡蝶に限らず、女優の白楊、阮玲玉ら、歌手の周璇、さらに作家の張愛玲などにも、この気質は際立って見られるそうです。
胡蝶は戦時中に香港に移り住み、1949年に夫が亡くなった後は一時期女優業から身を引きましたが、1959年に復帰し、香港や台湾で撮影されたいくつかの作品に参加しました。
そのうち、名監督李翰祥がメガホンを取った「後門」により、52歳の胡蝶は、第七回のアジア太平洋映画祭の最優秀女優賞を獲得しています。
1975年、台湾からカナダに移り、1989年に帰らぬ人となりました。
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