直木三十五 ― 2013-12-19 22:58:52
だいぶ前の話ですが、本を買いにTSUTAYAへ行くと子供が言うので、千五百ポイントぐらいたまっているから使っていいよと、僕のTポイントカードを渡しました。受け取りはしながら、ふ~ん、TSUTAYAってTポイント使えるのか、と疑われてしまいました。
似たような話もあります。
詳細は忘れたが、直木賞の話を子供がしていたので、本棚から「直木三十五伝」(植村鞆音、文芸春秋)を見せたら、誰それ?その人も直木賞を取ったことがあるのか、とまず聞かれました。
なるほど、直木三十五はすっかり読まれなくなった作家のひとりですね。賞に名前に残していなかったら、もしかして読み方すら忘れられているかも知れません。(現に、なおきみそご、と読んだ人を若干一名ですが、知っています...... )
作家の本名は植村宗一、31歳の頃「時事新報」で月評を書き始めたときのペンネームは「直木三十一」でした。以降、誕生日を迎えるたびに、直木三十二、直木三十三と改めていくが、なぜか34歳のときも直木三十三のままだったようです。
直木三十五に改名した大正15年、鳴り物入りで執筆した長編小説が「去来三代記」という作品です(「大衆文藝」の5月号から12月号まで連載)。
当時の広告に、「直木三十五なる男一生一篇の長編小説で、『大衆文藝』のみでは二十年かかる予定である。」と書かれましたが、結局はそれほど長くは続かず、8回のみで連載が終わってしまいました。
しかし、この途中で筆を措いた島津三代記の大構想こそが、昭和4年の「由比根元大殺記」を経て、昭和5年の代表作「南国太平記」引き継がれてゆく、転機となった作品だと言っても良いです。
出久根達郎の随筆によれば、35歳の頃に売れたために改名するのをやめ、直木三十五の筆名をそのまま亡くなった43歳まで使い続けました。しかし異説もあり、三十六計逃げるに如かず、と茶化されるのが嫌だったゆえ、三十五で打ち止めとしたそうです。
考えてみれば、「直木三十五なる男一生一篇の長編小説」という言い方もおもしろいです。
むしろ直木三十五で人気が出ず、早速翌年に直木三十六になっていたほうが、あの作品は直木三十五なる男一生一篇の長編であると、それこそ言えるはずです。
似たような話もあります。
詳細は忘れたが、直木賞の話を子供がしていたので、本棚から「直木三十五伝」(植村鞆音、文芸春秋)を見せたら、誰それ?その人も直木賞を取ったことがあるのか、とまず聞かれました。
なるほど、直木三十五はすっかり読まれなくなった作家のひとりですね。賞に名前に残していなかったら、もしかして読み方すら忘れられているかも知れません。(現に、なおきみそご、と読んだ人を若干一名ですが、知っています...... )
作家の本名は植村宗一、31歳の頃「時事新報」で月評を書き始めたときのペンネームは「直木三十一」でした。以降、誕生日を迎えるたびに、直木三十二、直木三十三と改めていくが、なぜか34歳のときも直木三十三のままだったようです。
直木三十五に改名した大正15年、鳴り物入りで執筆した長編小説が「去来三代記」という作品です(「大衆文藝」の5月号から12月号まで連載)。
当時の広告に、「直木三十五なる男一生一篇の長編小説で、『大衆文藝』のみでは二十年かかる予定である。」と書かれましたが、結局はそれほど長くは続かず、8回のみで連載が終わってしまいました。
しかし、この途中で筆を措いた島津三代記の大構想こそが、昭和4年の「由比根元大殺記」を経て、昭和5年の代表作「南国太平記」引き継がれてゆく、転機となった作品だと言っても良いです。
出久根達郎の随筆によれば、35歳の頃に売れたために改名するのをやめ、直木三十五の筆名をそのまま亡くなった43歳まで使い続けました。しかし異説もあり、三十六計逃げるに如かず、と茶化されるのが嫌だったゆえ、三十五で打ち止めとしたそうです。
考えてみれば、「直木三十五なる男一生一篇の長編小説」という言い方もおもしろいです。
むしろ直木三十五で人気が出ず、早速翌年に直木三十六になっていたほうが、あの作品は直木三十五なる男一生一篇の長編であると、それこそ言えるはずです。
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