明治の主婦の日記2013-12-27 23:17:15

 「明治の東京生活 ~女性が書いた明治の日記」(小林重喜、角川選書)を読みました。

 作者の母親である小林信子の日記、およびそれに付け加えた作者のコメントから構成されている内容です。日記は明治31年6月1日から明治31年1月21日、一旦中断(作者がこの年1月23日に生まれたもので、出産等で日記どころではなかっただろう)し、7月1日からふたたび付けはじめ、7月18日分の途中で切れました。
 信子は明治39年、7歳の重喜を残して33歳の若さで他界しました。生前、書き続けた日記も含めて処分すべきものはすべて処分したが、妊娠から子供が生まれたこの年の日記だけが、「捨てるに忍びなかっただろう」と、古びた柳行李の底に残しました。

 巻末の解説は、「日常の家の内がわだけの出来事に終始し、世間の様相や事件を記していないから、読み方によっては退屈を覚えるかもしれない。」と書かれていますが、そんなことはありません。
 慎ましく、選び抜かれた言葉を使い、主婦の目で世の移りの裏側を描いたところと、作者が気取りのない文体で解説、肉付けしているところ、いずれも僕にはおもしろいものでした。


 人の往来が少ない穏やかな日などは、日記が極めてシンプルな内容に留める場合があります。

 例えば、
 「九月二日、辰の日、金曜日、旧七月十七日、晴
 午前五時起き、七時食事、旦那様ご出勤。今日、箪笥の虫干し致す。夕、一同、一ッ木へ氷のみに参る。十時引」

 「十月二十五日、酉の日、火曜日、旧九月十一日、雨
 午前六時起き、八時食事、旦那様ご出勤。北島氏来る、信子、稽古(梅もどきと小菊)。昼、あじ塩焼きにて出す。午後五時、旦那様お帰り。十一時引」

 夫のことを必ず「旦那様」と書き、そのお母さんを「母上」、自分のことを「信子」と書いています。だいたい夏は5時、冬は6時に起き、判で押したように朝食の時間、「旦那様ご出勤」、午後十時か十一時の「引」(終業)を、必ず記しています。
 テレビも映画もない時代、エリートサラリーマンの旦那さんは会社中心の仕事人間のようですが、時に帰宅後に謡の稽古をしたり、寄席や能を楽しみ、玉突きをすることもありました。信子さんのレジャーといえば、生花と盆石(盆の上で石、砂、草木を配する盆景)の稽古ぐらいです。うなどんの出前はすでにあったようですが、当時の赤坂には食事所がなかったか、外食することはほとんどなく、夏では時々氷を飲みに行くことがあるようです。

 おもしろいのもあります。
 九月十一日の日曜日、上野動物園で当時評判になった猩々(ゴリラ)を見に行くため、親族総勢7名で上野まで赴った話。「一同空腹ゆえ、先ず鶯谷伊香保へ参り、ゆるゆる入浴して食事を致す。」と、滅多にない外食でゆっくりしていたら、気が付いたら4時が過ぎ、動物園が閉まっていたという、とんでもない失敗をして、「一同落胆、口あんぐり」してしまいました。

 七月十八日、夫の妹が来たとき、土産に菓子パン一袋のほか、子供(他界した前妻の子)に「ポンチ絵」を与えた記載があります。
 まんが風の絵を「ポンチ絵」といまでも言いますが、これは明治31年の日記、意外に古くから使われる言葉だと知りました。