シャンティ~LOTUS FLOWER ほか ― 2013-12-02 22:53:40
JJazz.Netで聞いてから気にいて、最近この曲をよく流します。
明るくなる楽しい曲です。
歌っているSHANTIさんは、神奈川県逗子市の生まれで、ゴダイゴのトミー・スナイダーの娘です。
知らなかったのですが、サザンも歌っているようです。
明るくなる楽しい曲です。
歌っているSHANTIさんは、神奈川県逗子市の生まれで、ゴダイゴのトミー・スナイダーの娘です。
知らなかったのですが、サザンも歌っているようです。
直木三十五 ― 2013-12-19 22:58:52
だいぶ前の話ですが、本を買いにTSUTAYAへ行くと子供が言うので、千五百ポイントぐらいたまっているから使っていいよと、僕のTポイントカードを渡しました。受け取りはしながら、ふ~ん、TSUTAYAってTポイント使えるのか、と疑われてしまいました。
似たような話もあります。
詳細は忘れたが、直木賞の話を子供がしていたので、本棚から「直木三十五伝」(植村鞆音、文芸春秋)を見せたら、誰それ?その人も直木賞を取ったことがあるのか、とまず聞かれました。
なるほど、直木三十五はすっかり読まれなくなった作家のひとりですね。賞に名前に残していなかったら、もしかして読み方すら忘れられているかも知れません。(現に、なおきみそご、と読んだ人を若干一名ですが、知っています...... )
作家の本名は植村宗一、31歳の頃「時事新報」で月評を書き始めたときのペンネームは「直木三十一」でした。以降、誕生日を迎えるたびに、直木三十二、直木三十三と改めていくが、なぜか34歳のときも直木三十三のままだったようです。
直木三十五に改名した大正15年、鳴り物入りで執筆した長編小説が「去来三代記」という作品です(「大衆文藝」の5月号から12月号まで連載)。
当時の広告に、「直木三十五なる男一生一篇の長編小説で、『大衆文藝』のみでは二十年かかる予定である。」と書かれましたが、結局はそれほど長くは続かず、8回のみで連載が終わってしまいました。
しかし、この途中で筆を措いた島津三代記の大構想こそが、昭和4年の「由比根元大殺記」を経て、昭和5年の代表作「南国太平記」引き継がれてゆく、転機となった作品だと言っても良いです。
出久根達郎の随筆によれば、35歳の頃に売れたために改名するのをやめ、直木三十五の筆名をそのまま亡くなった43歳まで使い続けました。しかし異説もあり、三十六計逃げるに如かず、と茶化されるのが嫌だったゆえ、三十五で打ち止めとしたそうです。
考えてみれば、「直木三十五なる男一生一篇の長編小説」という言い方もおもしろいです。
むしろ直木三十五で人気が出ず、早速翌年に直木三十六になっていたほうが、あの作品は直木三十五なる男一生一篇の長編であると、それこそ言えるはずです。
似たような話もあります。
詳細は忘れたが、直木賞の話を子供がしていたので、本棚から「直木三十五伝」(植村鞆音、文芸春秋)を見せたら、誰それ?その人も直木賞を取ったことがあるのか、とまず聞かれました。
なるほど、直木三十五はすっかり読まれなくなった作家のひとりですね。賞に名前に残していなかったら、もしかして読み方すら忘れられているかも知れません。(現に、なおきみそご、と読んだ人を若干一名ですが、知っています...... )
作家の本名は植村宗一、31歳の頃「時事新報」で月評を書き始めたときのペンネームは「直木三十一」でした。以降、誕生日を迎えるたびに、直木三十二、直木三十三と改めていくが、なぜか34歳のときも直木三十三のままだったようです。
直木三十五に改名した大正15年、鳴り物入りで執筆した長編小説が「去来三代記」という作品です(「大衆文藝」の5月号から12月号まで連載)。
当時の広告に、「直木三十五なる男一生一篇の長編小説で、『大衆文藝』のみでは二十年かかる予定である。」と書かれましたが、結局はそれほど長くは続かず、8回のみで連載が終わってしまいました。
しかし、この途中で筆を措いた島津三代記の大構想こそが、昭和4年の「由比根元大殺記」を経て、昭和5年の代表作「南国太平記」引き継がれてゆく、転機となった作品だと言っても良いです。
出久根達郎の随筆によれば、35歳の頃に売れたために改名するのをやめ、直木三十五の筆名をそのまま亡くなった43歳まで使い続けました。しかし異説もあり、三十六計逃げるに如かず、と茶化されるのが嫌だったゆえ、三十五で打ち止めとしたそうです。
考えてみれば、「直木三十五なる男一生一篇の長編小説」という言い方もおもしろいです。
むしろ直木三十五で人気が出ず、早速翌年に直木三十六になっていたほうが、あの作品は直木三十五なる男一生一篇の長編であると、それこそ言えるはずです。
オルフェーヴルの引退レース ― 2013-12-23 23:12:44
一日経ってもなおいくぶん気持ちが高ぶったままです。
むろん強いのは知っていました。知っているつもりでした。勝って競走生活を終えるのではないかと想像もしました。しかし、オルフェーヴルがラストランで見せたパフォーマンスは、想像をはるかに超越したものでした。
直線で後続に突き放す様は、神々しく思ってしまうもので、なんという強さだと中継アナが思わ漏らしたのも、実によくわかります、
これで引退するのは、つい勿体無く思ってしまいますが、終わらない夢はありません。決まったことなので、まずはお疲れ様、と言いたいと思います。
レース後の池添騎手のインタビューも、素直で感動的でかつさわやかでした。有馬記念の優勝ジョッキーインタビューと言えば、トウカイテイオーの田原さんが思い出されますが、あれに並ぶぐらい良いインタビューでした。
ということで、記憶にも記録にも残る、とても気持ちの良い有馬記念でした。
むろん強いのは知っていました。知っているつもりでした。勝って競走生活を終えるのではないかと想像もしました。しかし、オルフェーヴルがラストランで見せたパフォーマンスは、想像をはるかに超越したものでした。
直線で後続に突き放す様は、神々しく思ってしまうもので、なんという強さだと中継アナが思わ漏らしたのも、実によくわかります、
これで引退するのは、つい勿体無く思ってしまいますが、終わらない夢はありません。決まったことなので、まずはお疲れ様、と言いたいと思います。
レース後の池添騎手のインタビューも、素直で感動的でかつさわやかでした。有馬記念の優勝ジョッキーインタビューと言えば、トウカイテイオーの田原さんが思い出されますが、あれに並ぶぐらい良いインタビューでした。
ということで、記憶にも記録にも残る、とても気持ちの良い有馬記念でした。
明治の主婦の日記 ― 2013-12-27 23:17:15
「明治の東京生活 ~女性が書いた明治の日記」(小林重喜、角川選書)を読みました。
作者の母親である小林信子の日記、およびそれに付け加えた作者のコメントから構成されている内容です。日記は明治31年6月1日から明治31年1月21日、一旦中断(作者がこの年1月23日に生まれたもので、出産等で日記どころではなかっただろう)し、7月1日からふたたび付けはじめ、7月18日分の途中で切れました。
信子は明治39年、7歳の重喜を残して33歳の若さで他界しました。生前、書き続けた日記も含めて処分すべきものはすべて処分したが、妊娠から子供が生まれたこの年の日記だけが、「捨てるに忍びなかっただろう」と、古びた柳行李の底に残しました。
巻末の解説は、「日常の家の内がわだけの出来事に終始し、世間の様相や事件を記していないから、読み方によっては退屈を覚えるかもしれない。」と書かれていますが、そんなことはありません。
慎ましく、選び抜かれた言葉を使い、主婦の目で世の移りの裏側を描いたところと、作者が気取りのない文体で解説、肉付けしているところ、いずれも僕にはおもしろいものでした。
人の往来が少ない穏やかな日などは、日記が極めてシンプルな内容に留める場合があります。
例えば、
「九月二日、辰の日、金曜日、旧七月十七日、晴
午前五時起き、七時食事、旦那様ご出勤。今日、箪笥の虫干し致す。夕、一同、一ッ木へ氷のみに参る。十時引」
「十月二十五日、酉の日、火曜日、旧九月十一日、雨
午前六時起き、八時食事、旦那様ご出勤。北島氏来る、信子、稽古(梅もどきと小菊)。昼、あじ塩焼きにて出す。午後五時、旦那様お帰り。十一時引」
夫のことを必ず「旦那様」と書き、そのお母さんを「母上」、自分のことを「信子」と書いています。だいたい夏は5時、冬は6時に起き、判で押したように朝食の時間、「旦那様ご出勤」、午後十時か十一時の「引」(終業)を、必ず記しています。
テレビも映画もない時代、エリートサラリーマンの旦那さんは会社中心の仕事人間のようですが、時に帰宅後に謡の稽古をしたり、寄席や能を楽しみ、玉突きをすることもありました。信子さんのレジャーといえば、生花と盆石(盆の上で石、砂、草木を配する盆景)の稽古ぐらいです。うなどんの出前はすでにあったようですが、当時の赤坂には食事所がなかったか、外食することはほとんどなく、夏では時々氷を飲みに行くことがあるようです。
おもしろいのもあります。
九月十一日の日曜日、上野動物園で当時評判になった猩々(ゴリラ)を見に行くため、親族総勢7名で上野まで赴った話。「一同空腹ゆえ、先ず鶯谷伊香保へ参り、ゆるゆる入浴して食事を致す。」と、滅多にない外食でゆっくりしていたら、気が付いたら4時が過ぎ、動物園が閉まっていたという、とんでもない失敗をして、「一同落胆、口あんぐり」してしまいました。
七月十八日、夫の妹が来たとき、土産に菓子パン一袋のほか、子供(他界した前妻の子)に「ポンチ絵」を与えた記載があります。
まんが風の絵を「ポンチ絵」といまでも言いますが、これは明治31年の日記、意外に古くから使われる言葉だと知りました。
作者の母親である小林信子の日記、およびそれに付け加えた作者のコメントから構成されている内容です。日記は明治31年6月1日から明治31年1月21日、一旦中断(作者がこの年1月23日に生まれたもので、出産等で日記どころではなかっただろう)し、7月1日からふたたび付けはじめ、7月18日分の途中で切れました。
信子は明治39年、7歳の重喜を残して33歳の若さで他界しました。生前、書き続けた日記も含めて処分すべきものはすべて処分したが、妊娠から子供が生まれたこの年の日記だけが、「捨てるに忍びなかっただろう」と、古びた柳行李の底に残しました。
巻末の解説は、「日常の家の内がわだけの出来事に終始し、世間の様相や事件を記していないから、読み方によっては退屈を覚えるかもしれない。」と書かれていますが、そんなことはありません。
慎ましく、選び抜かれた言葉を使い、主婦の目で世の移りの裏側を描いたところと、作者が気取りのない文体で解説、肉付けしているところ、いずれも僕にはおもしろいものでした。
人の往来が少ない穏やかな日などは、日記が極めてシンプルな内容に留める場合があります。
例えば、
「九月二日、辰の日、金曜日、旧七月十七日、晴
午前五時起き、七時食事、旦那様ご出勤。今日、箪笥の虫干し致す。夕、一同、一ッ木へ氷のみに参る。十時引」
「十月二十五日、酉の日、火曜日、旧九月十一日、雨
午前六時起き、八時食事、旦那様ご出勤。北島氏来る、信子、稽古(梅もどきと小菊)。昼、あじ塩焼きにて出す。午後五時、旦那様お帰り。十一時引」
夫のことを必ず「旦那様」と書き、そのお母さんを「母上」、自分のことを「信子」と書いています。だいたい夏は5時、冬は6時に起き、判で押したように朝食の時間、「旦那様ご出勤」、午後十時か十一時の「引」(終業)を、必ず記しています。
テレビも映画もない時代、エリートサラリーマンの旦那さんは会社中心の仕事人間のようですが、時に帰宅後に謡の稽古をしたり、寄席や能を楽しみ、玉突きをすることもありました。信子さんのレジャーといえば、生花と盆石(盆の上で石、砂、草木を配する盆景)の稽古ぐらいです。うなどんの出前はすでにあったようですが、当時の赤坂には食事所がなかったか、外食することはほとんどなく、夏では時々氷を飲みに行くことがあるようです。
おもしろいのもあります。
九月十一日の日曜日、上野動物園で当時評判になった猩々(ゴリラ)を見に行くため、親族総勢7名で上野まで赴った話。「一同空腹ゆえ、先ず鶯谷伊香保へ参り、ゆるゆる入浴して食事を致す。」と、滅多にない外食でゆっくりしていたら、気が付いたら4時が過ぎ、動物園が閉まっていたという、とんでもない失敗をして、「一同落胆、口あんぐり」してしまいました。
七月十八日、夫の妹が来たとき、土産に菓子パン一袋のほか、子供(他界した前妻の子)に「ポンチ絵」を与えた記載があります。
まんが風の絵を「ポンチ絵」といまでも言いますが、これは明治31年の日記、意外に古くから使われる言葉だと知りました。
カルタ会と銭単位の経済 ― 2013-12-31 11:44:30
小林信子の日記(http://tbbird.asablo.jp/blog/2013/12/27/7159520)では、明治31年12月31日も「午前5時半起き、八時食事、旦那様ご出勤」と記され、当時のサラリーマンは大晦日も働いていたようです。
正月は五日まで休み、1月5日では20名近い来客を招き、小林家で盛大な「かるた会」が開かれました。
夕食に、「支那料理十二人前、すし十二人前、酒五合、ビール大二本、小一本出す」。また、「かるた数番の後、お持たせの物及び有り合せの物」で福引きも行ったようです。
この頃、正月ではかるた会がさかんに行われていました。
「未だ宵ながら松立てる門は」の名調子で書き出された尾崎紅葉の「金色夜叉」も、ランプとロウソクでまぶしい大広間でのカルタ会の場面から始まっています。
三十人余の若い男女のなかで、ひときわ目立つ美女が小説のヒロインの宮であり、その宮をみそめたのが、資産家の息子の富山唯継です。富山は金縁のメガネをかけ、指には大きなダイヤモンドの指輪をはめていました。「みて、あのダイヤモンド!」「あらまあ」「三百円」「ええ三百円もの?」
この時代はまだ「銭」単位の経済でありました。
蕎麦屋へいけば、もりもかけも二銭です。菓子屋へいけば、あんころもぼた餅も二銭です。信子の夫・小林安之助はサラリーマンにしては高給取りですが、月給は五十円から六十円でした。
正月、女中のはつへのお年玉は「旦那様より三十銭、母上、信子より十銭ずつ、別に母上より前さし一本。」であり、もうひとりの若い女中とりへは「旦那様より二十銭、母上よりかんざし、根がけ類一袋、信子より銀杏返し前さし一本」が与えられました。
日清戦争が終わって、つかの間の平和に政府は貿易を推進し、日本の国内産業は急成長しました。その結果、インフレが進んだが、明治35年に発行された「金色夜叉続編」の定価は、それでもまだ五十銭であったようです。
正月は五日まで休み、1月5日では20名近い来客を招き、小林家で盛大な「かるた会」が開かれました。
夕食に、「支那料理十二人前、すし十二人前、酒五合、ビール大二本、小一本出す」。また、「かるた数番の後、お持たせの物及び有り合せの物」で福引きも行ったようです。
この頃、正月ではかるた会がさかんに行われていました。
「未だ宵ながら松立てる門は」の名調子で書き出された尾崎紅葉の「金色夜叉」も、ランプとロウソクでまぶしい大広間でのカルタ会の場面から始まっています。
三十人余の若い男女のなかで、ひときわ目立つ美女が小説のヒロインの宮であり、その宮をみそめたのが、資産家の息子の富山唯継です。富山は金縁のメガネをかけ、指には大きなダイヤモンドの指輪をはめていました。「みて、あのダイヤモンド!」「あらまあ」「三百円」「ええ三百円もの?」
この時代はまだ「銭」単位の経済でありました。
蕎麦屋へいけば、もりもかけも二銭です。菓子屋へいけば、あんころもぼた餅も二銭です。信子の夫・小林安之助はサラリーマンにしては高給取りですが、月給は五十円から六十円でした。
正月、女中のはつへのお年玉は「旦那様より三十銭、母上、信子より十銭ずつ、別に母上より前さし一本。」であり、もうひとりの若い女中とりへは「旦那様より二十銭、母上よりかんざし、根がけ類一袋、信子より銀杏返し前さし一本」が与えられました。
日清戦争が終わって、つかの間の平和に政府は貿易を推進し、日本の国内産業は急成長しました。その結果、インフレが進んだが、明治35年に発行された「金色夜叉続編」の定価は、それでもまだ五十銭であったようです。
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