ロスチャイルド家とノミのコレクション(1) ― 2010-08-13 17:14:27

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18、19世紀のヨーロッパには2つの強力な王家がある、と書いたのは作家の山野浩一です。
ハプスブルク家はもう古い。挙げられたのは「海賊を繰り出して世界の富を略奪してきたイギリス王家」と、もうひとつ「近代化に向かう世界の国家事業に金を貸して富を蓄積してきたロスチャイルド家」です。
ロストチャイルド家の家紋やロストチャイルド父子銀行のマークには、どちらも五本の矢があります。パリ分家のギー・ド・ロスチャイルドの自叙伝によれば、初代のマイヤー・アムシェルが臨終のとき、5人の子供にスキタイの王の話をしたそうです。毛利元就の三本の矢の話とそっくりで、「お前たちは結束でいる限り強力であろう。」
この話には幾分潤色がされているようです。1812年9月のマイヤー・アムシェルの死はかなり突然で、フラクフルトの父の枕元にいたのは、長男のアムシェルと四男のカールだけでした。
とはいえ、ともかくロスチャイルド家の五兄弟はウイーン、ロンドン、フランクフルト、パリ、ナポリに散りながらも、国家の枠を超えて互いに協力し合い、巨大な資産を持つロスチャイルド王家を築きました。
古川柳に、「売家と唐様で書く三代目」というのがあります。
「唐様」というは墨書で書く中国風の立派な書体です。一代目が苦労して業を興し、二代目がそれを拡大して、三代目、四代目が遊びほうけて資産を食いつぶす(ついに家も売り出すが、書く字だけはその教養があるところを示した)、という法則は東西どこでも同じらしいです。
ロスチャイルド家の違うところは、城のような建物を建てて、毎週のように大パーティーを催しても、なかなかビクとしない財力があったことです。
ロンドン分家の創業者で二代目のネイサン(1777~1836)は仕事の鬼でしたが、三代目の四兄弟はみんなオックスフォード大学で学んで、いい意味でも悪い意味でもイギリス紳士として育ちました。
次男のアントニー(1810~1876)は優れた馬術家となり、三男のナサニエル(1812~1870)はフランスでのワイン醸造に精を出しました。末っ子のマイヤー・アムシェル(1818~1874)は名牝ハナー(Hannah)やダービー馬ファヴォニウス(Favonius)のオーナー、ユダヤ人としてはじめてジョッキークラブのメンバーになった人です。
長男のライオネル卿も後に競馬に参加し、ミスター・アクトンという仮名を使って、サーベヴィス(Sir Bevys)によってダービーを勝ちました。
ライオネル卿の末っ子レオポルド(1845~1917)は、叔父マイヤー・アムシェルの後継者として競馬界で大活躍し、ダービー馬セントアマント(St. Amant)や名馬セントフラスキン(St. Frusquin)のオーナーとなりました。
ハナー(http://p.bogus.jp/ped.php?id=38746)は父King Tom、母Mentmoreを持ち、1000ギニー、オークス、そして牝馬ながらセント・レジャーも勝った変則三冠馬です。同じ年にファヴォニウス(Favonius)がダービーも勝っていたので、1871年の英国クラシックはマイヤー・アムシェルの年だと称されていました。
実はハナーは、マイヤー・アムシェルの娘の名前でもあります。
ロスチャイルド家の家訓では、男はユダヤ教徒の女性としか結婚できないですが、女の子は家業に参加できない代わりに、ユダヤ人以外との結婚など、特に縛りは厳しくないです。
馬のハナーは引退後にすぐ亡くなり、その血を伝えることが出来なかったのですが、マイヤー・アムシェルの娘ハナー(1851~1890)は、後にローズベリー卿(the 5th Earl of Rosebery)に嫁いで、結果的にロスチャイルド家の閨閥を広げました。
ロスチャイルド家のメンバーは一旦なにかの収集癖を持ったら、その財力とあいまって、あっという間に第一級のコレクションになってしまいます。
例えば、レオポルドの長男のライオネル・ネイサン(1882~1942)の場合は園芸です。
イギリス南部のエクスベリーで大農場を購入して、200人の園芸師を雇い、30もの温室で1200もの新品種を作り、そのうち450種以上は英王立園芸協会に登録されました。
ライオネル卿の長男ナサニエル・マイヤー(1840-1915)には二人の息子がいました。
兄のライオネル・ウォルター博士(1868~1937)は有名な動物学者、ロンドンの北西部のトリングにある「The Natural History Museum at Tring」(http://www.nhm.ac.uk/tring/index.html)は、元々はウォルターの私設動物博物館、2007年に今の名前に改めるまでは「Walter Rothschild Zoological Museum」(ウォルター・ロスチャイルド動物学博物館)と呼ばれていました。
ここには、哺乳類の剥製が2000、鳥類の剥製が2400、鹿の角と頭が500、爬虫類の剥製680、ほか225万の昆虫類、30万の甲虫類や無数の骨、皮、タマゴ...の標本、世界最大級規模のコレクションだそうです。
同じトリングにある大英博物館の分館に、もうひとつユニークなコレクションがあります。
ライオネル・ウォルターの弟のナサニエル・チャールズ(1877~1923)による、世界最大のノミのコレクションです。
チャールズは銀行家を勤めるかたわら、趣味の昆虫標本収集、なかでも特にノミの標本を、着々と増やしていました。
「虫の文化誌」(小西正泰、朝日新聞社) によれば、ホッキョクグマにつくノミを採集するため北極へ探検隊を派遣したり、1904年にはホッキョクギツネのノミのペアを2500ドルで買い入れたりするエピソードが伝わっています。また、「ロスチャイルド家」(横山三郎、講談社)によると、自ら北アフリカへの収集旅行を行ったりもしたそうです。
チャールズのノミのコレクションはとにかく膨大なものです。
世界には約二千種類のノミがいて、種名があるのは約千八百種類だそうですが、その約8割のタイプ標本(新種を記載するのに使った標本)がそのコレクションに含まれているようです。
18、19世紀のヨーロッパには2つの強力な王家がある、と書いたのは作家の山野浩一です。
ハプスブルク家はもう古い。挙げられたのは「海賊を繰り出して世界の富を略奪してきたイギリス王家」と、もうひとつ「近代化に向かう世界の国家事業に金を貸して富を蓄積してきたロスチャイルド家」です。
ロストチャイルド家の家紋やロストチャイルド父子銀行のマークには、どちらも五本の矢があります。パリ分家のギー・ド・ロスチャイルドの自叙伝によれば、初代のマイヤー・アムシェルが臨終のとき、5人の子供にスキタイの王の話をしたそうです。毛利元就の三本の矢の話とそっくりで、「お前たちは結束でいる限り強力であろう。」
この話には幾分潤色がされているようです。1812年9月のマイヤー・アムシェルの死はかなり突然で、フラクフルトの父の枕元にいたのは、長男のアムシェルと四男のカールだけでした。
とはいえ、ともかくロスチャイルド家の五兄弟はウイーン、ロンドン、フランクフルト、パリ、ナポリに散りながらも、国家の枠を超えて互いに協力し合い、巨大な資産を持つロスチャイルド王家を築きました。
古川柳に、「売家と唐様で書く三代目」というのがあります。
「唐様」というは墨書で書く中国風の立派な書体です。一代目が苦労して業を興し、二代目がそれを拡大して、三代目、四代目が遊びほうけて資産を食いつぶす(ついに家も売り出すが、書く字だけはその教養があるところを示した)、という法則は東西どこでも同じらしいです。
ロスチャイルド家の違うところは、城のような建物を建てて、毎週のように大パーティーを催しても、なかなかビクとしない財力があったことです。
ロンドン分家の創業者で二代目のネイサン(1777~1836)は仕事の鬼でしたが、三代目の四兄弟はみんなオックスフォード大学で学んで、いい意味でも悪い意味でもイギリス紳士として育ちました。
次男のアントニー(1810~1876)は優れた馬術家となり、三男のナサニエル(1812~1870)はフランスでのワイン醸造に精を出しました。末っ子のマイヤー・アムシェル(1818~1874)は名牝ハナー(Hannah)やダービー馬ファヴォニウス(Favonius)のオーナー、ユダヤ人としてはじめてジョッキークラブのメンバーになった人です。
長男のライオネル卿も後に競馬に参加し、ミスター・アクトンという仮名を使って、サーベヴィス(Sir Bevys)によってダービーを勝ちました。
ライオネル卿の末っ子レオポルド(1845~1917)は、叔父マイヤー・アムシェルの後継者として競馬界で大活躍し、ダービー馬セントアマント(St. Amant)や名馬セントフラスキン(St. Frusquin)のオーナーとなりました。
ハナー(http://p.bogus.jp/ped.php?id=38746)は父King Tom、母Mentmoreを持ち、1000ギニー、オークス、そして牝馬ながらセント・レジャーも勝った変則三冠馬です。同じ年にファヴォニウス(Favonius)がダービーも勝っていたので、1871年の英国クラシックはマイヤー・アムシェルの年だと称されていました。
実はハナーは、マイヤー・アムシェルの娘の名前でもあります。
ロスチャイルド家の家訓では、男はユダヤ教徒の女性としか結婚できないですが、女の子は家業に参加できない代わりに、ユダヤ人以外との結婚など、特に縛りは厳しくないです。
馬のハナーは引退後にすぐ亡くなり、その血を伝えることが出来なかったのですが、マイヤー・アムシェルの娘ハナー(1851~1890)は、後にローズベリー卿(the 5th Earl of Rosebery)に嫁いで、結果的にロスチャイルド家の閨閥を広げました。
ロスチャイルド家のメンバーは一旦なにかの収集癖を持ったら、その財力とあいまって、あっという間に第一級のコレクションになってしまいます。
例えば、レオポルドの長男のライオネル・ネイサン(1882~1942)の場合は園芸です。
イギリス南部のエクスベリーで大農場を購入して、200人の園芸師を雇い、30もの温室で1200もの新品種を作り、そのうち450種以上は英王立園芸協会に登録されました。
ライオネル卿の長男ナサニエル・マイヤー(1840-1915)には二人の息子がいました。
兄のライオネル・ウォルター博士(1868~1937)は有名な動物学者、ロンドンの北西部のトリングにある「The Natural History Museum at Tring」(http://www.nhm.ac.uk/tring/index.html)は、元々はウォルターの私設動物博物館、2007年に今の名前に改めるまでは「Walter Rothschild Zoological Museum」(ウォルター・ロスチャイルド動物学博物館)と呼ばれていました。
ここには、哺乳類の剥製が2000、鳥類の剥製が2400、鹿の角と頭が500、爬虫類の剥製680、ほか225万の昆虫類、30万の甲虫類や無数の骨、皮、タマゴ...の標本、世界最大級規模のコレクションだそうです。
同じトリングにある大英博物館の分館に、もうひとつユニークなコレクションがあります。
ライオネル・ウォルターの弟のナサニエル・チャールズ(1877~1923)による、世界最大のノミのコレクションです。
チャールズは銀行家を勤めるかたわら、趣味の昆虫標本収集、なかでも特にノミの標本を、着々と増やしていました。
「虫の文化誌」(小西正泰、朝日新聞社) によれば、ホッキョクグマにつくノミを採集するため北極へ探検隊を派遣したり、1904年にはホッキョクギツネのノミのペアを2500ドルで買い入れたりするエピソードが伝わっています。また、「ロスチャイルド家」(横山三郎、講談社)によると、自ら北アフリカへの収集旅行を行ったりもしたそうです。
チャールズのノミのコレクションはとにかく膨大なものです。
世界には約二千種類のノミがいて、種名があるのは約千八百種類だそうですが、その約8割のタイプ標本(新種を記載するのに使った標本)がそのコレクションに含まれているようです。
ロスチャイルド家とノミのコレクション(2) ― 2010-08-13 17:31:04

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アルジェリアの平穏な港町オランに、突然ペストの脅威が襲い、医師ベルナール・リウーらは外部から遮断されたこの都市の中で、悪疫の圧倒的な力と戦うことになりました。
アルベール・カミュの小説「ペスト」(1947年)の話です。
響き渡る死の足音のなか、医師は事件を記録し 、せめて思い出だけでも残しておくためです。
カミュの小説では、ネズミがペストをばらまく病気の根源のように書いていますが、人に感染させたのは、むろん、そのネズミに寄生したノミのほうです。ネズミの血を吸ってペストを感染したノミが、また人の血を吸うので、ペストを食い止めたければ、ネズミを駆除しなければ、という理屈にはなります。
明治29年(1896年)、台湾で発生したペストの研究に、帝国大学医学大学教授の緒方正規と山極勝三郎は現地に向かいました。ペストは元々ネズミの仲間の病気であり、その伝染に一役を買っているのがノミである、という卓説を提唱しました。
のちにヨーロッパでも実験的に証明されましたが、それでもなお数年の間は疑問視されました。古くから人間の周りにいて、ある意味では親しまれてきたノミが、あの恐ろしいペスト菌を媒介することは、いかに信じられなかったかを示す話です。
それでも日本ではいち早く実地で応用されました。ペストの発生地では、ネズミの駆除を奨励するために政府がネズミの買い上げを行ったり、ネコを飼うように通達を出したりしました。そのおかげか、大規模の流行にはならなかったようです。
東京渋谷区祥雲寺にある鼠塚(http://www.asahi-net.or.jp/~rn2h-dimr/ohaka2/90sonota/nezumi.html)は、明治33年~34年に東京で最初のペスト患者が発生したとき、政府の買い上げで犠牲になったネズミたちの霊を弔うものです。
その2年後の明治36年(1903年)、あのロスチャイルド家のナサニエル・チャールズが日本を訪れました。
ロスチャイルド家の人が日本を訪れたのはこのときが最初でした。珍しい動物、昆虫、草花を収集するためにやってきたそうですが、あるいはノミも気になっていたかも知れません。
日本の地方への旅行は大いに歓待され、「日本は天国だよ。親がとやかく言わなければ、ここに住みたいぐらいだ」、と友人宛の手紙に書いたそうです。
実は、ペストを媒介するケオプスネズミノミは、チャールズが命名したものです。人類の歴史を幾たびも大きく変えたペストの元凶、実はそれまでは名無しの新種だったわけです。
チャールズには8人の子供がいましたが、その第一子のミリアム・ルイザも、ノミについて約五十万におよぶ論文を発表してきた、有名なノミの女性研究者です。
ネズミノミではなく、「蚤もいとにくし」と清少納言に言わせた、古来から人間にたかるのはヒトノミです。
なにがおかしいかと言えば、寄生されたほうの人間がよほどおかしくて、なんとも珍妙なことを考え出します。にくいと言いながら、ヒトノミにいろいろな芸をさせる「ノミのサーカス」なる見せ物を考え出すのですから。
それも話によれば、ルイ14世も見物したというから、ずいぶんと長い歴史を持っています。
木製の槍も持たせて行進させたり、2匹のノミに馬具をつけて黄金の四輪車を引かせたり、紙製のスカートに閉じこめ、オルゴールの音に合わせてダンスさせたり、意外にも演目はバラエティに富んでいたそうです。
なかでも一番人気があるのがフットボールで、座長の「ゴー」のかけ声に応じて、仁丹粒ほどの小さなボールをはじきとばすものでした。( 人語をノミが理解したわけではなく、掛け声とともに出た二酸化炭素にノミが反応しただけ、だそうですが)
日本にもノミのサーカスがやってきました。
まずは昭和4年(1929年)、三代に渡るノミの研究家という触れこみのジョン・C・ルールが来日し、東京、神戸、広島、福岡などで興行を行いました。その後、その愛弟子のトミーこと董守經(上海出身?)という中国人が、昭和11年の工芸博覧会で小屋を出し、また昭和35年(その頃は香港在住?)にも子供?と一緒に再来日し、東京や横浜で興行を行ったそうです。
上の写真はその頃のものです。
どうやって運んできたかはわかりませんが、血を吸わせて芸を仕込んだ一座のノミたちを、遙々と海を越えて日本に連れてきたはずです。
冒頭で、ペストを食い止めたければネズミを駆除せよ、の話を書きましたが、ペストは元々ネズミの仲間の病気で、昔から局地的に発生していました。それを世界規模に広げたのはむしろ人間のせいです。
実際、人間の行動範囲の広さゆえ、どんな伝染病でも人間に感染し出すと、伝播する速さと広さは脅威的なものになります。
ネズミの立場から言えば、人間の血を吸ってペストに感染したノミがまた我々ネスミの血を吸うので、ペストを食い止めるにはともかく人間を駆除すべき、ということになりませんかね。
アルジェリアの平穏な港町オランに、突然ペストの脅威が襲い、医師ベルナール・リウーらは外部から遮断されたこの都市の中で、悪疫の圧倒的な力と戦うことになりました。
アルベール・カミュの小説「ペスト」(1947年)の話です。
響き渡る死の足音のなか、医師は事件を記録し 、せめて思い出だけでも残しておくためです。
カミュの小説では、ネズミがペストをばらまく病気の根源のように書いていますが、人に感染させたのは、むろん、そのネズミに寄生したノミのほうです。ネズミの血を吸ってペストを感染したノミが、また人の血を吸うので、ペストを食い止めたければ、ネズミを駆除しなければ、という理屈にはなります。
明治29年(1896年)、台湾で発生したペストの研究に、帝国大学医学大学教授の緒方正規と山極勝三郎は現地に向かいました。ペストは元々ネズミの仲間の病気であり、その伝染に一役を買っているのがノミである、という卓説を提唱しました。
のちにヨーロッパでも実験的に証明されましたが、それでもなお数年の間は疑問視されました。古くから人間の周りにいて、ある意味では親しまれてきたノミが、あの恐ろしいペスト菌を媒介することは、いかに信じられなかったかを示す話です。
それでも日本ではいち早く実地で応用されました。ペストの発生地では、ネズミの駆除を奨励するために政府がネズミの買い上げを行ったり、ネコを飼うように通達を出したりしました。そのおかげか、大規模の流行にはならなかったようです。
東京渋谷区祥雲寺にある鼠塚(http://www.asahi-net.or.jp/~rn2h-dimr/ohaka2/90sonota/nezumi.html)は、明治33年~34年に東京で最初のペスト患者が発生したとき、政府の買い上げで犠牲になったネズミたちの霊を弔うものです。
その2年後の明治36年(1903年)、あのロスチャイルド家のナサニエル・チャールズが日本を訪れました。
ロスチャイルド家の人が日本を訪れたのはこのときが最初でした。珍しい動物、昆虫、草花を収集するためにやってきたそうですが、あるいはノミも気になっていたかも知れません。
日本の地方への旅行は大いに歓待され、「日本は天国だよ。親がとやかく言わなければ、ここに住みたいぐらいだ」、と友人宛の手紙に書いたそうです。
実は、ペストを媒介するケオプスネズミノミは、チャールズが命名したものです。人類の歴史を幾たびも大きく変えたペストの元凶、実はそれまでは名無しの新種だったわけです。
チャールズには8人の子供がいましたが、その第一子のミリアム・ルイザも、ノミについて約五十万におよぶ論文を発表してきた、有名なノミの女性研究者です。
ネズミノミではなく、「蚤もいとにくし」と清少納言に言わせた、古来から人間にたかるのはヒトノミです。
なにがおかしいかと言えば、寄生されたほうの人間がよほどおかしくて、なんとも珍妙なことを考え出します。にくいと言いながら、ヒトノミにいろいろな芸をさせる「ノミのサーカス」なる見せ物を考え出すのですから。
それも話によれば、ルイ14世も見物したというから、ずいぶんと長い歴史を持っています。
木製の槍も持たせて行進させたり、2匹のノミに馬具をつけて黄金の四輪車を引かせたり、紙製のスカートに閉じこめ、オルゴールの音に合わせてダンスさせたり、意外にも演目はバラエティに富んでいたそうです。
なかでも一番人気があるのがフットボールで、座長の「ゴー」のかけ声に応じて、仁丹粒ほどの小さなボールをはじきとばすものでした。( 人語をノミが理解したわけではなく、掛け声とともに出た二酸化炭素にノミが反応しただけ、だそうですが)
日本にもノミのサーカスがやってきました。
まずは昭和4年(1929年)、三代に渡るノミの研究家という触れこみのジョン・C・ルールが来日し、東京、神戸、広島、福岡などで興行を行いました。その後、その愛弟子のトミーこと董守經(上海出身?)という中国人が、昭和11年の工芸博覧会で小屋を出し、また昭和35年(その頃は香港在住?)にも子供?と一緒に再来日し、東京や横浜で興行を行ったそうです。
上の写真はその頃のものです。
どうやって運んできたかはわかりませんが、血を吸わせて芸を仕込んだ一座のノミたちを、遙々と海を越えて日本に連れてきたはずです。
冒頭で、ペストを食い止めたければネズミを駆除せよ、の話を書きましたが、ペストは元々ネズミの仲間の病気で、昔から局地的に発生していました。それを世界規模に広げたのはむしろ人間のせいです。
実際、人間の行動範囲の広さゆえ、どんな伝染病でも人間に感染し出すと、伝播する速さと広さは脅威的なものになります。
ネズミの立場から言えば、人間の血を吸ってペストに感染したノミがまた我々ネスミの血を吸うので、ペストを食い止めるにはともかく人間を駆除すべき、ということになりませんかね。
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