17年前2010-03-02 01:10:12

 今夜の雨は、いつ止むのでしょうか?


 雨停了嗎?夜静静的籠罩了大地。
 暗夜無月,無星,却難無雜念。我知道,有一天我會失去視野停止呼吸,生命會默然而去。

 但!那畢竟不是現在。現在,We are alive!(嘿,目前最消極的成功是,我們還活著。)你説人生事如幻似電,難道真的就只是浮光掠影,不留下一點蜘糸馬跡嗎?至少我們有記憶!
 且暫莫哀吾生之須臾、羨長江之無窮。

 最近又流行一種論調講的是輪廻轉胎,前世來生。其實大家都知道這是人類千百年來的旧調重談。在王權帝制的時代裡,它維持著君主的地位;在宗教至上的日子裡,它藉神佛口中道出;在講究科學邏輯的今日,它仗著疑是科学的論調而復蘇。也不用再説輪廻的真偽。看今日雲霧曾是昨日川河滄海,也或將為明日的飲水涙涕。原子不滅,質量不減,要説是輪廻轉世也不可。
 不過我想我們也不用將生命的意義寄寓於來生來世。我們擁有的記憶限於今生,且絶無僅有,難道不値得珍惜嗎?
 人生没有予演。所有一時一刻都是至真至實,偉大宇宙的一瞬。

コメント

_ 花うさぎ ― 2010-03-02 23:45:11

それで、「17年前」というのは、この文章をお書きになったのが17年前だということなのですか?

私自身は、来世も前世も、神仏も信じたことがありません。

そういうものはフィクションにすぎないと思ってきましたが、
多くの人は本当に信じているのだろうかと思う時があります。
人間って、フィクションと知りつつも、信じることってあるでしょう?
そういうものでなく、本当に信じる人がいるのかなというのが、私の長年来の疑問なのです。

>所有一時一刻都是至真至實,偉大宇宙的一瞬。

 ある意味、来世も前世もあると信じるのは、潔くない考え方であって、この一度限りの生命を軽んじることかもしれませんね。

_ yoshi ― 2010-03-05 12:54:07

小さい声しか言えないが、勿論今は「実実在在」、何より大切ですが、でも時々来世を信じることだけで、人に希望を与えると、私は思いますが。祥林saoみたいに、最後彼女の生きがえはすべて「給廟里捐門檻」でした!この世に、どうしても不幸に襲われる人がいる、しかも不幸に不幸、何をしても不幸になる、そのとき、まだ来世があるということはどんなにいいことでしょう!

って、下手な日本語で申し訳ありません。中国語にしたかったが、文字化けてしまって。。。。

_ T.Fujimoto ― 2010-03-06 00:33:36

花うさぎさん、お察しの通り、古い本を読み直すと、若いときに書いたものが挟んであって、今ごろ出てきてしまいました。
来世や前世を信じる人をひそかに嗤っていましたが、いまとなっては、それもありかなと思うようになりました。もちろん神仏を必要とせず生きていける人もいると思います。一方で、小説や演劇、フィクションでも本物だと思って見たほうが楽しいと思う考え方もありましょうね。

_ T.Fujimoto ― 2010-03-06 01:17:49

yoshiさん、つまらない雑文にコメントを頂き、ありがとうございます。
小さい声ではなく、大きい声でもいいですよ(笑)。いや、僕も同感です。
いざ召されるとき、風に吹かれ、川に溶け込む。失われるのは意志、なくなるのは記憶、しかしバカなんて、それが生命のすべてかどうかがわかりません。いつか同じ元素から新たな個体が組み合わされることを考えれば、来世があると言われたら、ある意味納得できます。

詭弁だと言われたらそれはそれで甘んじるが、真実ばかりが重要とも限らないですよね。どうせ宇宙の真理などわかるはずもない小さな存在、迷惑にならない限り、思いたいがまま、それが自分にとっての真実になりましょう。
応無所在、而生其心。不怕没有、只怕你不要。

_ 花うさぎ ― 2010-03-06 10:53:49

みなさんがおっしゃることには基本的に同感しています。
でも、私も若くはないので、それなりに長い間、世間を見てきましたけれども、
必ずしも、「苦しくて救いがないから、来世や前世を信じる」というばかりではないのも知っています。

今のこのキビシイ世の中でそれが必要とされるのもわかります。
でも、あのバブルの浮かれた世の中でも前世や来世は、全盛期を迎えていたし、
あのオウムもそのころに生まれたものです。あれは、苦しみから逃れるためというよりは、プライドが高いのに、現実の自分の凡庸さに直面できないというかそんな感じのものに思えました。

さらに、今の世の中、私の身内にもいるのですけど、
現実的な処置をすれば、あっという間に解決できることにもなぜかスピリチュアルのようなものを介在させてしまって、解決できない人もいます。
宗教のようなものがみな悪いとも思わないけれど、
そういうものを簡単に受け入れてしまう心の弱さゆえに、付け込まれて利用されているしか人たちを見るにつけ、どうしてもっと理性的に現実を見ようとしないのだろうと痛ましい思いをするのです。

_ T.Fujimoto ― 2010-03-10 00:14:59

花うさぎさん、こんばんは。
仰るとおりで、なにかにつけて霊的な解決を求める考え方には辟易してしまいますね。前世や来世の話を、擬似科学的に語られるのも、聞いていて苦痛に思います。

個人的に、来世にはほとんどなにも期待していないですが、あえてそこに救いを求める考え方は理解できます。いまの世の中はバブルのときより厳しいかどうかはよくわからないですが、苦しくて救いがないから来世や前世を信じる、というのは一側面だけで、本来、救いであると同時に畏れ、個人を律するためにも存在する意義があるはずですよね。

_ why ― 2010-04-02 21:43:02

17年前のFujimotoさんはこういうことを考えていらしたんですね。
3月2日ですかぁ。初めてこの記事を拝読した時、ドキッとさせられました。奇しくも私が日本に暮らし始めた日は3月2日で、17年前の今頃は無我夢中の毎日でした。思い返すとあっという間に年を重ねてしまったような気がして、「暗夜無月,無星,却難無雜念」と口ずさみながら、感慨ひとしおです。
果てしない宇宙の中では、人間はちっぽけなものですね。人間の浅ましい知恵では到底理解しきれない世界のほうがずっと広いのではないかと思います。だから、神様がいるとしてもちっとも不思議ではないでしょう。
私自身、欲の塊で根っからの俗物なので、信仰心などは持ち合わせていませんが、でも、精神的な支えになるものはやはり人間にとっては必要なのではないかと思いますね。それは必ずしも宗教とは限らないでしょうけれど、Fujimotoさんがおっしゃるように、苦しみから救われたり、勇気を与えられたりするのみならず、自らの心を律する一つの規範にもなるものなら、やはり存在する価値はきっとあると思います。
良きにつけ悪しきにつけ、世界中あれだけの人たちが宗教に帰依していることを考えれば、まんざら否定もできない気がしますね。

_ T.Fujimoto ― 2010-04-03 01:11:32

whyさん、こんばんは。3月2日はwhyさんにとって記念日ですね。

17年前のあのときも、来世というものにあまりの重みを置き、またとない貴重な「いま」を蔑ろにしてしまうと勿体ないな、と思って書いただけだと思います。宗教や信仰をすべて否定しようと思ったわけではありません。
確かに教会というものにほとんど入ったことがないし、六曜やお彼岸などの仏事にも無頓着です。しかし、ひとつの宗教に帰依していないのは、たまたまかも知れません。
仰ったように、果てしない宇宙にあって、人間は実にちっぽけで理解できない領域ははるかに広いですね。理解できないところに神がいるかも、というより僕はバカなんで、理解できないところはもうすべて神そのものに見えます。無神論者は、一方で汎神論者です。ですから、「不怕没有、只怕你不要。」 と書いたのも、心に思えば求めたい姿に神様はいるだろう、とふっと思ったわけです。
サンスクリット語で厳密に構築された原始仏教のなかの仏に対して、その仏の姿を仰ぎたいという衝動から生まれた密教。トーラーという完全無欠な神の言葉に疑問を抱かさない正統派のユダヤ教徒に対して、人間の手に伝承される神の言葉は検証して生活に取り入れるべきとする改革派。古い言葉が語り尽くされると、新しいメロディが心から生まれます。

_ 花うさぎ ― 2010-04-05 23:28:15

>来世というものにあまりの重みを置き、またとない貴重な「いま」を蔑ろにしてしまうと勿体ないな

でも
みなさんのお考えを読んだけれど、やっぱり、これは、すこぶる理性的で正しい態度ではないでしょうか。それなのに、なぜか最近こういう考え方が「融通の利かない」「感性の低い」考え方とみなされて始めたようで、危惧を感じています。

私たちに確かに触れることができるのは、この「今」だけ。
ズタズタになるくらいこれに対峙することなくして、また、この自分の人生に対する当事者性を全うすることなくして、「前世」や「宗教」や「神秘」で理性をごまかしてしまっては、どうしてこの一回限りかもしれない自分の人生に申し訳が立ちましょう。

私としては、自分で手が届かないものを人に言われたからって簡単に信じてはいけないということは常に確認しておきたいと思っています。科学だの、教育だのって、人のいいなりにならずに、自分の人生を考えるための武器だったと思うんです。

本当にぎりぎり之境遇にあって、苦しくて、それで宗教にすがるという人はそれほど多くはないはずです。
最近、スピリチュアルとか、そういう風潮は人々を「蒙昧」の世界に踏み込ませ、退化させようとしているかのようで、なんとなくイヤなものを常に感じてしまいますし、それに簡単に載せられる人にももどかしい思いをしてしまいます。

_ T.Fujimoto ― 2010-04-07 23:48:21

花うさぎさん、こんばんは。
物質的に貧しい人たち、満たされているゆえに失う怖さを感じる人たち。精神的に苦しい人たち、快楽のあとに来る寂しさに無常を感じてしまう人たち。怪しい輪廻のつらさを看破できず、ひたすらに苦しむ人たち。宗教に縋って救いを求める形はたぶんいろいろありますよね。
節制、自律、布施......広く受け入れられている宗教は、その教義、主張も多くの人々が良識で判断し、検証していると信じたいです。であれば、僕の考えでは、この一生を良い形で過ごすために必要であれば、自らの意志で信じる道に進めばいいかなと思います。
人生を良い形で過ごすための手段と書いたら、信仰心の厚い方から怒られてしまうかも知れませんが。

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