【読後感】「シッダールタ」 Hremann Hesse 著2007-12-13 00:24:10

 ヘルマン・ヘッセ(Hremann Hesse)は、1946年のノーベル文学賞を受賞したドイツの作家です。
 氏の作品で、僕が読んだのはこの「シッダールタ(Siddhartha)」だけです。

 もちろん、学生時代に赤点を取った僕のドイツ語レベルは、原文にとても歯が立ちません。読んだのは中国語訳と日本語訳だけです。

 まずは、だいぶ前に台湾にいる友人HCCからもらった中国語訳(題名「流浪者之歌」、台北水牛出版社、蘇念秋訳)でした。
 そして、今度見つけたのが、新潮文庫版、高橋健二の日本語訳で、久々に読み直しました。
 深い感銘を受けた昔の記憶が甦りました。どっちも、たぶん、よい訳だと思います。


 Siddharthaは、お釈迦様の出家以前の名前です。
 しかし、この作品は釈尊の伝記ではなく、恐らくお名前を借りているだけのフィクションです。いくつかの段階を経て、最終的に悟りの境地に至ったシッダールタという人の物語です。

 まず青年時代、バラモン教士を父に持つシッダールタは、少年時代から輝いていました。美しくて聡明で、両親、友人、まわりすべての人から愛されていました。しかし、シッダールタ本人は幸せでなく、心に不安があり付きまとい、知識欲は満たされぬままでした。

 そこで彼は、彼を敬愛する友人を従い、沙門の道を選びました。修行者として毎日一食だけの生活を送り、町から町へと流浪の旅に出ました。
 中国訳版のここの文章は、妙に印象深いものです。
 「遇到女人時、他的目光変的氷冷、穿過人們衣着豪華的城鎮時、他面顕軽蔑、緊閉双唇。他看到商人們做売買、王公們去打猟、弔喪的人們悲泣、妓女們売淫、医生們治病、祭士們決択播種的日子、情侶們縦情肉欲、母親們安慰自己的孩子~所有這一切都値不得一看......世界的滋味很辛酸;生命是痛苦的。」

 ところが、シッダールタは沙門の先達とともに何年間も行動しましたが、沙門道では自分は救われないと感じました。霊魂を我が身から一時的に離脱する術も身に付けましたが、それでもやがて魂は体に戻り、再び輪廻の重い苦しみを感じるようになってしまいます。
 その頃、涅槃に達した仏陀という人がいるという話を聞き、また友人と一緒に仏陀のところへ赴きました。仏陀が悟りに達していることは認めながら、教えの中に一点の不完全さを指摘し、弟子になる道を選ばず、ずっとついてくる友人にも別れを告げ、衆生の中へ入っていきます。

 それから、シッダールタは美しい遊女カマーラと出会い、男女の愛を知り、商人となり、事業にも成功しました。
 初めは、俗世間の群衆のなかにいても、心のなかでは依然として修業僧のままでした。しかも何年も経て、世俗の生活を送り、富みと権勢と情欲の歓楽を手にして、やがてシッダールタの心は塵に埋もれてしまいました。賭博に手を染め、勝ったり負けたり、お金に対する執着心まで生まれてきました。

 そして、シッダールタは年を取り、疲れて。そしてある時重い病気になりました。病の後、昔のことを思い出し、父親、友人、仏陀を思い出しました。一日中マンゴの木の下で考えた末、すべての財産を捨て、再び森の中に向かい、川にたどり着きました。
 川の渡し守になったシッダールタは、カマーラとの間に出来た子供を瀕死の母親から受け取り、一緒に生活を開始しました。しかし子供は寂しい森での生活を好まず、悪事を働き、暴言を吐き、ついに逃げ出してしまいました。

 シッダールタは心の中で深い傷を負いましたが、月日が過ぎ、川からさまざまなことを学び、シッダールタはようやく、一切をあるがままに愛する高い境地に到達しました。
 物語の最後、シッダールタは若いときの友人と再会しました。
 聖人であるとの噂があがる川の渡し守に、仏陀の弟子、尊敬される高僧となったかつての友人が会いに行ったわけです。
 ふたりとも老人となり、高僧になっても心のなかでは依然として暗い道での探索者である友人に対して、シッダールタは至善者でしか持ち得ない微笑みを見せたのであります。


 読後感というより、話の概要をまとめる形となりましたが。

 作品のなかに、はっきりと書いてはいないものの、仏陀の教えに対するシッダールタの疑問は、仏陀自身がどのように涅槃に達した、その道のりだったと思います。

 高いところから、凡世間の喜怒哀楽をただ軽蔑するのではありません。
 世俗の生活に身を投じ、あらゆる汚れを身に染みることも、子供とのつらい別れも、シッダールタにとっては真の解脱に至るために、絶対必要なことだったのでしょう。