新紀元や光緒万年2015-06-14 00:33:36

 中国清末の文学や思想は、実は思いのほか百花繚乱です。


 碧荷館主人と名乗る作者が1908年に書いた「新紀元」という小説を、「開放文学」のページ(http://open-lit.com/bookindex.php?gbid=405)で読んでいます。
 伝統的な章回小説の体裁を取りながらも、内容はまさにSFです。

 1999年、立憲制を採用し、すでに世界の大国に躍進した中国は、西暦を廃止して黄帝紀元を用いることを議会で議決したことがきっかけとなり、いろいろ紛糾が拡大し、ついにドイツ、フランス、イギリスを中心とする白人の同盟国と戦争することになりました。
 どうもその頃の中国には二百五十万の常備兵と、千兆の人口を有し(さすがにこれは多すぎ!)、西洋の列強からも一目を置く存在になっていたようです。同盟国との戦争も最後は中国が勝利し、12条からなる和解条約を敗戦各国に飲ませた展開です。
 モンゴルの後裔であるハンガリーを保護下に置くことなどを含む、その和解条約の第3条は、以下の通り:
 「三、今後、中国と同人種の国は、すべて黄帝紀元を用い、黄色人種であって中国と同人種でない国も、黄帝紀元を用いたいのであれば、各国は決して干渉せぬこと。」

 条約が発効される西暦2000年3月は、黄帝紀元4707年の正月にあたるそうです。


 西洋列強によって押し付けられた不平等条約に悩まされたり、無能な政府官吏に人々が怒りを感じたりする、この清王朝末のカオス時代ほど、さまざまな時間尺が交差した時代はないです。

 武田雅哉氏の著書によると、 日本に留学した中国人学生たちが発行した「江蘇」誌は、「黄帝紀元4394年(西暦1903年)」の創刊だとしています。(「新紀元」の「黄帝紀元」とは二百年以上のずれがありますね。)
 中国革命同盟会系の雑誌「光華報」の創刊は、「中華開国紀元4606年(1908年)」になっています。
 さらに、維新派の雑誌「東亜報」は、みずからその創刊日を「孔子紀元2449年5月11日(西暦1898年6月29日にあたる)」と記しています。
 一方、「新世紀」誌は古い栄光は追わず、「新世紀7年(1907年)」の創刊、としているだけです。

 自らの時間尺を主張することは、自らの思想を主張することと、ほぼ等しい、かも知れません。


 我佛山人こと呉趼人氏に、「光緒萬年」という風刺小説もあります。

 清王朝光緒32年に、政府が立憲制の準備開始を宣告しながらも、遅々として進展しなかったのです。とある年に、彗星が地球にあわやというところでかすめ、その影響でなぜか地球の南北が逆転し、六月の真夏だったはずの中国に雪が舞い、こもりっきりで彗星を観測し、軌道計算に必死だった「偉人」が外に出てみたら、街は一気にきれいになり、人々の顔に笑みが見えました。なにがあったんだろうかと思ったら、今日から立憲制が実施された、と告げられました。

 それがいつの年かというと、光緒万年だそうです。