元使五人塚 ― 2010-12-07 01:25:22

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湘南モノレール江の島駅から歩いて数分のところに、常立寺という日蓮宗のお寺さんがあります。
その昔、よくぶらぶら歩き回っていた頃、何度か訪れたことがあり、下手な水彩画の題材にしたこともありました。
いまではとうに紛失しましたが、とても昔の記事(http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/02/12/1178183)に、とてもとても昔の写真が載っていますが、会社の寮に住んでいた頃の壁に常立寺の門を写した絵を貼っており、それが二枚目の写真にちょっこと写っていました。
常立寺の境内に、「元使五人塚」というのがあります。
1275年に来日した、元王朝の使者・杜世忠の句が石碑に刻まれています。
出門妻子贈寒衣、
問我西行幾日帰。
来時儻佩黄金印、
莫見蘇秦不下機。
蘇秦は言うまでもなく、中国の戦国時代の説客、諸国を遊説して合縦を成立させたとされる縦横家です。その蘇秦をあげ、杜世忠は思いを託したかと思いますが、この詩は辞世の句となりました。日本との交渉にうまく行かなかったところか、使者の口上を述べる間もなく、ここ藤沢で斬首されたそうです。
正使の杜世忠だけでなく、 副使以下通訳まで、一行5人はまとめて処刑されました。理由は、元の日本への侵攻をくじくもので、永く和親を断ち、通問しないためでした。
・正使:杜世忠(34歳・蒙古人)
・副使:何文著(38歳・唐人)
・計議官:撤都魯丁(32歳・ウイグル人もしくトルコ人)
・書状官:果(32歳・ウイグル人もしくトルコ人)
・通訳:徐賛(32歳・高麗国人)
4年後の1279年、南宋の降将・范文虎が、南宋と日本のよしみで元に通好するように薦めれば、日本は応じるかも知れないということで、宋の旧臣・周福、通訳・陳光、日本僧本暁房霊果などを使者に立て、国書を携えて来日しました。
しかし、内容は杜世忠が持参してきたフビライの国書と大差がなく、日本側からは脅迫めいたように読め、今度は京・鎌倉幕府にまわすことさえなく、博多で斬首してしまいました。
日本史のなかの海賊、水軍について調べているうち、モンゴル襲来の頃の話がいろいろ出てきて、併せて昔に見た「元使五人塚」も思い出されました。考えてみれば、文永の役と弘安の役の間とは言え、子細なく国使の首を刎ねるとは、随分とむごい話です。
湘南モノレール江の島駅から歩いて数分のところに、常立寺という日蓮宗のお寺さんがあります。
その昔、よくぶらぶら歩き回っていた頃、何度か訪れたことがあり、下手な水彩画の題材にしたこともありました。
いまではとうに紛失しましたが、とても昔の記事(http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/02/12/1178183)に、とてもとても昔の写真が載っていますが、会社の寮に住んでいた頃の壁に常立寺の門を写した絵を貼っており、それが二枚目の写真にちょっこと写っていました。
常立寺の境内に、「元使五人塚」というのがあります。
1275年に来日した、元王朝の使者・杜世忠の句が石碑に刻まれています。
出門妻子贈寒衣、
問我西行幾日帰。
来時儻佩黄金印、
莫見蘇秦不下機。
蘇秦は言うまでもなく、中国の戦国時代の説客、諸国を遊説して合縦を成立させたとされる縦横家です。その蘇秦をあげ、杜世忠は思いを託したかと思いますが、この詩は辞世の句となりました。日本との交渉にうまく行かなかったところか、使者の口上を述べる間もなく、ここ藤沢で斬首されたそうです。
正使の杜世忠だけでなく、 副使以下通訳まで、一行5人はまとめて処刑されました。理由は、元の日本への侵攻をくじくもので、永く和親を断ち、通問しないためでした。
・正使:杜世忠(34歳・蒙古人)
・副使:何文著(38歳・唐人)
・計議官:撤都魯丁(32歳・ウイグル人もしくトルコ人)
・書状官:果(32歳・ウイグル人もしくトルコ人)
・通訳:徐賛(32歳・高麗国人)
4年後の1279年、南宋の降将・范文虎が、南宋と日本のよしみで元に通好するように薦めれば、日本は応じるかも知れないということで、宋の旧臣・周福、通訳・陳光、日本僧本暁房霊果などを使者に立て、国書を携えて来日しました。
しかし、内容は杜世忠が持参してきたフビライの国書と大差がなく、日本側からは脅迫めいたように読め、今度は京・鎌倉幕府にまわすことさえなく、博多で斬首してしまいました。
日本史のなかの海賊、水軍について調べているうち、モンゴル襲来の頃の話がいろいろ出てきて、併せて昔に見た「元使五人塚」も思い出されました。考えてみれば、文永の役と弘安の役の間とは言え、子細なく国使の首を刎ねるとは、随分とむごい話です。
版画の板 ― 2010-12-18 00:07:50
地球エディターで遊ぶ ― 2010-12-21 20:55:07
地球エディーター(http://dan-ball.jp/javagame/ee/)で、のんびり遊んでいます。
氷や塩を置いたり、砂や水を掛けたり、雲や油を加えたり、種で木を生やしたりして。最後に隕石をぶつけると、見事な爆発が起きて、なかなか止まりません。
氷や塩を置いたり、砂や水を掛けたり、雲や油を加えたり、種で木を生やしたりして。最後に隕石をぶつけると、見事な爆発が起きて、なかなか止まりません。
サン・ガブリエル号からサン・フアン・バウティスタ号 ― 2010-12-25 14:08:47

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インド航路を発見?したヴァスコ・ダ・ガマが、マラリアの感染で亡くなったのは486年前、西暦1524年のクリスマスでした。
写真の切手は、1497年のヴァスコ・ダ・ガマの船とありますが、そうだとすれば、横帆式船のサン・ガブリエル(São Gabriel)号、ということになります。
ネットで調べると、このサン・ガブリエル号と姉妹船のサン・ラファエル号はどちらも200トンであると書かれているところもあれば、サン・ガブリエル号は 250トン、サン・ラファエル号は100トンだと書かれているところや、実は120トンしかないだとするところもあり、記録がないためか、本当にまちまちです。
Wikipediaでは最近の研究内容から、サン・ガブリエル号は全長25.7mの178トンで、サン・ラファエル号もほぼ同型だとしています。( http://en.wikipedia.org/wiki/S%C3%A3o_Gabriel_(ship) )
コロンブスの新大陸到達に続き、インド航路の発見が大航海時代の到来を加速させ、ヨーロッパ人はその16世紀前半に、海路からも日本来ていました。
「ガリヴァー旅行記」の主人公レミュール・ガリヴァーも、第三回の航海では、空の浮島・ラピュタ島、変な科学者が集うバルニバルビ島、魔術師のいるグラブダブドリ島、不死人間と話したラグナグ島を経て、外国人に十字架踏みの儀式を強要する不思議な国・日本にやって来ました。(最後はオランダ人と偽って、長崎から出港して帰国しました)
作者のジョナサン・スウィフトが、ガリヴァーのモデルとして参考したとされているのが、後に三浦按針とも呼ばれる、1600年にリーフデ号に乗って日本に漂着したイギリス人のウイリアム・アダムスだそうです。
インドへの新航路を発見すべく、ジャック・マフー指揮下のロッテルダム艦隊の4隻の僚船ホープ号(旗艦)、ヘローフ号、トラウ号、フライデ・ボートスハップ号とともに、約300トンのリーフデ号が出航したのはは1598年の6月でした。リーフデ号の船名の「Liefde」はオランダ語で「愛」を意味する単語ですが、元々はルネサンス期の人文主義者として知られるエラスムスの名を冠した「エラスムス号」だった話も聞きますが、いきさつ等詳細は不明です。旗艦・ホープ(希望)号など、ほかの船に名前を合わせただけかも知れません。
しかし名前通り希望に輝くものとは程遠く、ポルトガルに拿捕されたり、太平洋で沈没したり、さらに伝染病や土着民の襲撃など、ロッテルダム艦隊の航海は悲惨なものでした。
しかし、かろうじて豊後の臼杵に漂着したリーフデ号の生存者のなか、ウイリアム・アダムスは徳川家康の信頼を得て、また船大工としての経験を買われて、西洋式帆船の建造を要請されるに至りました。
ウイリアム・アダムスの監督の下、伊豆半島の伊東で日本では初めての造船ドックを設けて、80トンの帆船を建造したのが1604年、さらに1607年には120トンの船舶も完成させました。
1610年、メキシコの使節として来日していたドン・ロドリゴは、自分たちの船が台風で破損して帰国ができなくなったとき、家康が貸し出したのがその帆船でした。船を提供する見返りとして、京都の豪商田中勝介とほか22名の日本人の船乗りを乗船させることを要求しましたが、22人は航海技術を習得させるのが目的で、田中勝介はメキシコとの貿易を振興する可能性がないかリサーチさせたようです。
黒澤脩によると、この事件は、家康による「大御所派墨使節」として、キチンと歴史に刻むべき使節派遣だとしています(「歴史読本」2010年11月)。
ちなみに、その船はサン・ブエナ・ベントゥーラ号と名付けられ、英語版Wikipediaにも載っています(http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_warship_San_Buena_Ventura)。8月に日本を離れたサン・ブエナ・ベントゥーラ号は、約三ヶ月後にメキシコ西海岸のアカプルコに到着し、恐らく日本で建造された船では、初めて太平洋を横断した船となりました。
日本人の船乗りがこの航海でどの程度航海技術を習得したかの史料は確認されていません。田中勝介のほうは、翌1611年のセバスチャン・ビスカイノを答礼使とするスペイン船に同乗して日本に帰国し、アメリカ大陸に渡って往復した、恐らく初の日本人となりました。ちなみに、ドン・フランシスコ・デ・ベラスコという洗礼名をもらった田中勝介は、メキシコを貿易に関しては可能性のない国である旨を、家康に復命したそうです。
セバスチャン・ビスカイノが仙台領内に滞在していたとき、その協力を得て、時の仙台藩主・伊達政宗が仙台領内で建造したガレオン船が、かの有名なサン・フアン・バウティスタ号となります(http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_warship_San_Juan_Bautista)。
約500トンはあるこの巨大な帆船は、1613年に同じくメキシコのアカプルコに到着していました。
Wikipea日本語版では「最初の日本製西洋型軍船である。」と明記していますが、英語版では「one of Japan's first Japanese-built Western-style sail warships」に留めています。「one of」であるのは、先のサン・ブエナ・ベントゥーラ号の項も「warship」と明記してあるためかも、と思います。
インド航路を発見?したヴァスコ・ダ・ガマが、マラリアの感染で亡くなったのは486年前、西暦1524年のクリスマスでした。
写真の切手は、1497年のヴァスコ・ダ・ガマの船とありますが、そうだとすれば、横帆式船のサン・ガブリエル(São Gabriel)号、ということになります。
ネットで調べると、このサン・ガブリエル号と姉妹船のサン・ラファエル号はどちらも200トンであると書かれているところもあれば、サン・ガブリエル号は 250トン、サン・ラファエル号は100トンだと書かれているところや、実は120トンしかないだとするところもあり、記録がないためか、本当にまちまちです。
Wikipediaでは最近の研究内容から、サン・ガブリエル号は全長25.7mの178トンで、サン・ラファエル号もほぼ同型だとしています。( http://en.wikipedia.org/wiki/S%C3%A3o_Gabriel_(ship) )
コロンブスの新大陸到達に続き、インド航路の発見が大航海時代の到来を加速させ、ヨーロッパ人はその16世紀前半に、海路からも日本来ていました。
「ガリヴァー旅行記」の主人公レミュール・ガリヴァーも、第三回の航海では、空の浮島・ラピュタ島、変な科学者が集うバルニバルビ島、魔術師のいるグラブダブドリ島、不死人間と話したラグナグ島を経て、外国人に十字架踏みの儀式を強要する不思議な国・日本にやって来ました。(最後はオランダ人と偽って、長崎から出港して帰国しました)
作者のジョナサン・スウィフトが、ガリヴァーのモデルとして参考したとされているのが、後に三浦按針とも呼ばれる、1600年にリーフデ号に乗って日本に漂着したイギリス人のウイリアム・アダムスだそうです。
インドへの新航路を発見すべく、ジャック・マフー指揮下のロッテルダム艦隊の4隻の僚船ホープ号(旗艦)、ヘローフ号、トラウ号、フライデ・ボートスハップ号とともに、約300トンのリーフデ号が出航したのはは1598年の6月でした。リーフデ号の船名の「Liefde」はオランダ語で「愛」を意味する単語ですが、元々はルネサンス期の人文主義者として知られるエラスムスの名を冠した「エラスムス号」だった話も聞きますが、いきさつ等詳細は不明です。旗艦・ホープ(希望)号など、ほかの船に名前を合わせただけかも知れません。
しかし名前通り希望に輝くものとは程遠く、ポルトガルに拿捕されたり、太平洋で沈没したり、さらに伝染病や土着民の襲撃など、ロッテルダム艦隊の航海は悲惨なものでした。
しかし、かろうじて豊後の臼杵に漂着したリーフデ号の生存者のなか、ウイリアム・アダムスは徳川家康の信頼を得て、また船大工としての経験を買われて、西洋式帆船の建造を要請されるに至りました。
ウイリアム・アダムスの監督の下、伊豆半島の伊東で日本では初めての造船ドックを設けて、80トンの帆船を建造したのが1604年、さらに1607年には120トンの船舶も完成させました。
1610年、メキシコの使節として来日していたドン・ロドリゴは、自分たちの船が台風で破損して帰国ができなくなったとき、家康が貸し出したのがその帆船でした。船を提供する見返りとして、京都の豪商田中勝介とほか22名の日本人の船乗りを乗船させることを要求しましたが、22人は航海技術を習得させるのが目的で、田中勝介はメキシコとの貿易を振興する可能性がないかリサーチさせたようです。
黒澤脩によると、この事件は、家康による「大御所派墨使節」として、キチンと歴史に刻むべき使節派遣だとしています(「歴史読本」2010年11月)。
ちなみに、その船はサン・ブエナ・ベントゥーラ号と名付けられ、英語版Wikipediaにも載っています(http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_warship_San_Buena_Ventura)。8月に日本を離れたサン・ブエナ・ベントゥーラ号は、約三ヶ月後にメキシコ西海岸のアカプルコに到着し、恐らく日本で建造された船では、初めて太平洋を横断した船となりました。
日本人の船乗りがこの航海でどの程度航海技術を習得したかの史料は確認されていません。田中勝介のほうは、翌1611年のセバスチャン・ビスカイノを答礼使とするスペイン船に同乗して日本に帰国し、アメリカ大陸に渡って往復した、恐らく初の日本人となりました。ちなみに、ドン・フランシスコ・デ・ベラスコという洗礼名をもらった田中勝介は、メキシコを貿易に関しては可能性のない国である旨を、家康に復命したそうです。
セバスチャン・ビスカイノが仙台領内に滞在していたとき、その協力を得て、時の仙台藩主・伊達政宗が仙台領内で建造したガレオン船が、かの有名なサン・フアン・バウティスタ号となります(http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_warship_San_Juan_Bautista)。
約500トンはあるこの巨大な帆船は、1613年に同じくメキシコのアカプルコに到着していました。
Wikipea日本語版では「最初の日本製西洋型軍船である。」と明記していますが、英語版では「one of Japan's first Japanese-built Western-style sail warships」に留めています。「one of」であるのは、先のサン・ブエナ・ベントゥーラ号の項も「warship」と明記してあるためかも、と思います。
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