レンタルビデオ屋さんと貸本屋さん ― 2008-12-16 22:00:40
小学生の頃、家の最初のビデオはのちにほとんど絶滅になったβ(ベータ)デッキでした。
いまから30年以上も前、台湾にビデオなるものが入ってきたばかりで、台北市内でもレンタルビデオ店がほとんど見当たらない時代です。店が存在しないだけで、レンタルビデオ屋さんがちゃんといて、行商人のように、向こうからやってきていました。
家に上がってくるなり、黒いスーツケースを開けて、お客さん、どれがお好みですか。
水戸黄門や子連れ狼、土曜ワイド劇場に水曜サスペンス、演歌の花道と8時全員集合、全日本プロレスと新日本プロレス。日本の一週前のテレビ番組、それがコマーシャルも含めてそのまま録画されたという、とびきり新鮮な海賊版ビデオがずらり並んでいました。
1週間に1回ぐらいのペースでまわってきていたが、それ以外でも電話で呼べば都合は付けてくれます。顧客の好みに気を配ってくれる上、次回のリクエストもできるから、便利と言えば便利でした。
行商人タイプのレンタルビデオ屋さんは、しかし長くは続かず、しばらくするとレンタルビデオ店が町のあっちこっちに現れてきました。のちにケーブルテレビが解禁されて一気に勢いが萎えてしまったが、それまでは本当にたくさんの台湾人がレンタルビデオ店に日々通っていて、日本やアメリカや香港の番組を見ていたわけです。
中学生の頃、ほとんど僕がビデオを借りに行く係りなので、よく覚えていますが、初期のレンタルビデオ店では、まず客が入会金代わりに1000元で2本のビデオを買い取り、その後は1回で15元ほどで店にある新しいビデオと交換できる、そういう仕組みでした。
菓子パン1コが5元の時代でしたから、いま考えると、えらく高価なビデオカセットでした。
なぜこんな昔話を思い出したかというと、「お江戸でござる」(新潮文庫)を読むと、江戸時代の貸本屋とよく似ているのにびっくりしたからです。
江戸時代の貸本屋も、腰から頭まで本の束を背負って、顧客先に出向くのが基本であったようです。
お堅い実用書・教養書を除けば、草紙のような読み物はほとんど買うのではなく、江戸時代の人は貸本で読んでいました。
ヒーロー物、恋愛物、ミステリー。お客さん、今度こんな本が入りましたよ、といい場面をちらっと見せて、ネタバレにならない程度であらすじを聞かせるそうでした。
実は小学校の頃、僕も家の近くにあった貸本屋に通っていました。
置いてあるのは漫画、武侠小説、恋愛小説の類でしたが、店のなかで読むなら問題ないとして、家に持って帰るには保証金が必要でした。僕が通っていた店では代わりに「学生証」を預けてもよかったのですが、大事な学生証を預ける後ろめたさもあったが、子供時分の僕たちにとって保証金はちょっとした大金でした。
江戸時代では草紙類でも、1冊が現在のお金で1万5千円から2万円くらいはしたそうで、簡単には買えないわけです。が、ちょっと田舎に行くと、その1冊か2冊かをお客さんが買って、あとで貸本屋と交換するという、まさに僕がレンタルビデオ屋さんで経験したあのスタイルも、江戸の世にはできていたらしいです。
江戸で最大のベストセラー作家が柳亭種彦であり、13年間にかけて38巻も出した「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」は、それぞれの巻がすべて1万部を超えるベストセラーになっていました。「源氏物語」をベースにしたラブストーリーですが、1冊を何十人もまわして読んだ江戸時代の貸本文化を考えると、いまのミリオンセラー以上の勢いです。
連載中に「種彦先生が病気だ」という噂が広まると、続きが読めなくなるのではないかと心配して、著者の平癒を、江戸中の女性たちがいろいろな神仏に願掛けしたほどでした。
幕末近くでは、江戸市内だけで800軒ほどの貸本屋があって、合わせればと数十万人の読者がいたそうです。江戸市民の生活と密に関わるだけでなく、重要な文化伝達の担い手でもあったと言えましょう。
いまから30年以上も前、台湾にビデオなるものが入ってきたばかりで、台北市内でもレンタルビデオ店がほとんど見当たらない時代です。店が存在しないだけで、レンタルビデオ屋さんがちゃんといて、行商人のように、向こうからやってきていました。
家に上がってくるなり、黒いスーツケースを開けて、お客さん、どれがお好みですか。
水戸黄門や子連れ狼、土曜ワイド劇場に水曜サスペンス、演歌の花道と8時全員集合、全日本プロレスと新日本プロレス。日本の一週前のテレビ番組、それがコマーシャルも含めてそのまま録画されたという、とびきり新鮮な海賊版ビデオがずらり並んでいました。
1週間に1回ぐらいのペースでまわってきていたが、それ以外でも電話で呼べば都合は付けてくれます。顧客の好みに気を配ってくれる上、次回のリクエストもできるから、便利と言えば便利でした。
行商人タイプのレンタルビデオ屋さんは、しかし長くは続かず、しばらくするとレンタルビデオ店が町のあっちこっちに現れてきました。のちにケーブルテレビが解禁されて一気に勢いが萎えてしまったが、それまでは本当にたくさんの台湾人がレンタルビデオ店に日々通っていて、日本やアメリカや香港の番組を見ていたわけです。
中学生の頃、ほとんど僕がビデオを借りに行く係りなので、よく覚えていますが、初期のレンタルビデオ店では、まず客が入会金代わりに1000元で2本のビデオを買い取り、その後は1回で15元ほどで店にある新しいビデオと交換できる、そういう仕組みでした。
菓子パン1コが5元の時代でしたから、いま考えると、えらく高価なビデオカセットでした。
なぜこんな昔話を思い出したかというと、「お江戸でござる」(新潮文庫)を読むと、江戸時代の貸本屋とよく似ているのにびっくりしたからです。
江戸時代の貸本屋も、腰から頭まで本の束を背負って、顧客先に出向くのが基本であったようです。
お堅い実用書・教養書を除けば、草紙のような読み物はほとんど買うのではなく、江戸時代の人は貸本で読んでいました。
ヒーロー物、恋愛物、ミステリー。お客さん、今度こんな本が入りましたよ、といい場面をちらっと見せて、ネタバレにならない程度であらすじを聞かせるそうでした。
実は小学校の頃、僕も家の近くにあった貸本屋に通っていました。
置いてあるのは漫画、武侠小説、恋愛小説の類でしたが、店のなかで読むなら問題ないとして、家に持って帰るには保証金が必要でした。僕が通っていた店では代わりに「学生証」を預けてもよかったのですが、大事な学生証を預ける後ろめたさもあったが、子供時分の僕たちにとって保証金はちょっとした大金でした。
江戸時代では草紙類でも、1冊が現在のお金で1万5千円から2万円くらいはしたそうで、簡単には買えないわけです。が、ちょっと田舎に行くと、その1冊か2冊かをお客さんが買って、あとで貸本屋と交換するという、まさに僕がレンタルビデオ屋さんで経験したあのスタイルも、江戸の世にはできていたらしいです。
江戸で最大のベストセラー作家が柳亭種彦であり、13年間にかけて38巻も出した「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」は、それぞれの巻がすべて1万部を超えるベストセラーになっていました。「源氏物語」をベースにしたラブストーリーですが、1冊を何十人もまわして読んだ江戸時代の貸本文化を考えると、いまのミリオンセラー以上の勢いです。
連載中に「種彦先生が病気だ」という噂が広まると、続きが読めなくなるのではないかと心配して、著者の平癒を、江戸中の女性たちがいろいろな神仏に願掛けしたほどでした。
幕末近くでは、江戸市内だけで800軒ほどの貸本屋があって、合わせればと数十万人の読者がいたそうです。江戸市民の生活と密に関わるだけでなく、重要な文化伝達の担い手でもあったと言えましょう。
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