麗子さんの祖父2019-03-02 22:53:21

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 小林清親の版画「海運橋 (第一銀行雪中)」(http://travelertraveler.blog.fc2.com/img/2_convert_20150317211813.jpg/) を見たのは、昨年の4月です。

 1876年の作品だとされていますが、女性の傘に描かれた「銀座・岸田」が気になり、検索してみたら、画家の岸田劉生の父親が銀座で開いていた目薬の店を指す、と出てきました。

 岸田劉生の父親は、岸田吟香です。
 東京・銀座に岸田吟香の「楽善堂」ができたのは1877年(明治10年)であり、微妙に時間関係が逆転しているような気がしますが、それとも開店前の宣伝なのでしょうか?


 岸田吟香は1863年(文久3年)4月、眼病を患い、箕作秋坪の紹介でヘボン式ローマ字でも知られる医師のヘボンを訪ね、治療を受けました。

 眼病を患って良かった、という言い方はないでしょうが、岸田吟香はヘボンと知り合いになったことで、ヘボンが当時手がけていた辞書の編纂を手伝うようになり、上梓した日本最初の英語で書かれた日本語辞典に「和英語林集成」と名付けたのも岸田だそうです。
 さらに、ヘボンから目薬の作り方も教わり、日本で最初の液体目薬である「精錡水(せいきすい)」を発売するに至りました。

 1873年、岸田は東京日日新聞に入社し、記者、編集長として活躍しました。
 宮古島島民遭難事件がきっかけで明治政府が台湾に出兵した際、岸田は、これまた日本初である従軍記者の形で戦地に赴き、その報道は評判を呼んだそうです。

 1877年、岸田は新聞社を退社し、売薬業に専念するようになりました。
 1880年、中国は上海に渡り、楽善堂支店を開くなど、岸田は販路を各地に拡げる成功を収めましたた。
 なお、漢口楽善堂は、岸田の援助を得て荒尾精が開いたそうです (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%8F%A3%E6%A5%BD%E5%96%84%E5%A0%82)


 いま、「広告から見える明治・大正・昭和 懐かしのホーロー看板」 (佐溝力、祥伝社) を読んでいますが、上の写真は、そのなかに出ているホーロー看板です。
 目薬の「精錡水」のほか、「薬志ゃぼん」も出ていますが、シャボンなので、こちらは薬石鹸ですね。

 ホーロー看板は主に室外で作られる鉄製の看板のことですが、使われるようになったのは1890年頃だそうです。明治時代の風俗を取り入れた錦絵広告や新聞広告などに力を入れ、宣伝を重視する商才のある岸田吟香は、ホーロー看板を使う宣伝もいちはやく取り入れたのでしょう。

 「海運橋 (第一銀行雪中)」に描かれた傘も、宣伝のために岸田が小林清親に依頼したのかも知れません。

征露丸2019-03-24 20:37:55

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 引き続き、「広告から見える明治・大正・昭和~ 懐かしのホーロー看板」(祥伝社、佐溝力) からの話です。

 上の写真が、このなかに出ている征露丸のホーロー看板です。
 「正露丸」ではなく、「征露丸」となっており、よく広告で見られるラッパのマークもありません。

 セイロガンの始まりには諸説があり、明治35年に薬商の中嶋佐一が開発、販売したのが最初である、と言われたりします。昭和20年、その中嶋佐一薬房から製造販売権を買い取ったのが、いまのラッパのマークで知られる大幸薬品 (旧柴田製薬所)です。
 数年前に、いわゆるセイロガン訴訟が話題になっていましたが、他社の販売する類似商品に対し、パッケージの使用差し止めなどを求めた訴訟で、大幸薬品が敗訴となりました。
 明治時代から様々なセイロガンが発売されて、すでに一般用語になっていると裁判所が判断したようです。写真のホーロー看板の「征露丸」も、他社製品のようです。

 なお、「露」はロシアであり、「征」となっていたのは日ロ戦争中にこの薬が流行ったからとも、逆に縁起の良い名前ゆえに万能薬としてもてはやされたとも、言われています。