コン比べ、根競べ ― 2013-05-16 23:40:23
十数年前に、JRAでコンクラーベという競走馬が走っていました。
確かに重賞にも出走したことがあり、そこそこ活躍していた馬です。毎週競馬中継に釘付けしていた時期、というのもありますが、いまもってよく覚えているのは、なにより名前が面白かったからです。
日本語の「根競べ」を、わざわざ音を伸ばした、なかなかしゃれた珍名馬ではありませんか、と。
そう思っていた僕は、恥ずかしいぐらいのバカです。
しばらく前に、新ローマ法皇決定会議のニュースを聞きながら、ふっと昔の記憶が蘇り、あっ、こっちのほうだな、といまさら気づきました。
netkeiba.comで調べてみたら、コンクラーベの母は米国産馬のコンカロ(Concaro)、コンクラーベの妹にコンフィデンスとコンパス、弟にコンタクト(重賞2勝)、コンカローレ、コンセルティスタがいます。一年前の記事(http://tbbird.asablo.jp/blog/2012/06/22/6488722)ではないですが、コン繋がりで、まさにコンだらけです。
オーナーの方、命名に若干手抜きしていたかも知れません。
ちなみに、Concaroの父は名種牡馬Caro、母はConfessという名前の馬で、ConとCaro、アメリカ人もやはり手抜きだったのでしょうか?
そういえば、テレビのニュースは法皇を選ぶほうのコンクラーベの仕組みも教えてくれました。
投票権を持つ枢機卿たちは、システィーナ礼拝堂で缶詰され、新教皇が決定されたら、白い煙を礼拝堂の煙突から出して外部へ合図するそうです。しかし、新教皇が決まらない場合は黒い煙を出し、決まるまで延々と投票が繰り返されるそうです。
複数の候補者が拮抗したら容易に結論が出ない仕組みで、そうすると、やはり根競べになるのではないかと、つい邪推してしまいます。
確かに重賞にも出走したことがあり、そこそこ活躍していた馬です。毎週競馬中継に釘付けしていた時期、というのもありますが、いまもってよく覚えているのは、なにより名前が面白かったからです。
日本語の「根競べ」を、わざわざ音を伸ばした、なかなかしゃれた珍名馬ではありませんか、と。
そう思っていた僕は、恥ずかしいぐらいのバカです。
しばらく前に、新ローマ法皇決定会議のニュースを聞きながら、ふっと昔の記憶が蘇り、あっ、こっちのほうだな、といまさら気づきました。
netkeiba.comで調べてみたら、コンクラーベの母は米国産馬のコンカロ(Concaro)、コンクラーベの妹にコンフィデンスとコンパス、弟にコンタクト(重賞2勝)、コンカローレ、コンセルティスタがいます。一年前の記事(http://tbbird.asablo.jp/blog/2012/06/22/6488722)ではないですが、コン繋がりで、まさにコンだらけです。
オーナーの方、命名に若干手抜きしていたかも知れません。
ちなみに、Concaroの父は名種牡馬Caro、母はConfessという名前の馬で、ConとCaro、アメリカ人もやはり手抜きだったのでしょうか?
そういえば、テレビのニュースは法皇を選ぶほうのコンクラーベの仕組みも教えてくれました。
投票権を持つ枢機卿たちは、システィーナ礼拝堂で缶詰され、新教皇が決定されたら、白い煙を礼拝堂の煙突から出して外部へ合図するそうです。しかし、新教皇が決まらない場合は黒い煙を出し、決まるまで延々と投票が繰り返されるそうです。
複数の候補者が拮抗したら容易に結論が出ない仕組みで、そうすると、やはり根競べになるのではないかと、つい邪推してしまいます。
競馬場のトルストイ (ほかタゴール、シェクスピア) ― 2013-03-20 00:57:19
前回はヘミングウェイについて書きました(http://tbbird.asablo.jp/blog/2013/03/07/6740400)が、実はヘミングウェイの同期に、トルストイがいます。
もちろん、競馬のほうの話です。
トルストイは2010年、ロシアの文豪レフ・トルストイが没後百周年の年に生まれ、いまJRA栗東・音無厩舎に所属している馬です。
レオ・トルストイの名著「アンナ・カレーニナ」に、競馬場のシーンが描かれています。
アンナが、恋人のヴロンスキーの落馬に動揺し、浮気が夫に疑われてしまう、あの有名な場面です。
実は19世紀は、ロシアの競馬人気がもっとも頂点に達した時期で、モスクワの競馬場に上流階級やお金持ちの人々が集まっていたようです。
そもそもロシアにはアラブ、ドン、アカールテケ(http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/10/22/1866220)などの基礎血統や、オルロフ・トロッターなどの改良種がそろい、20世紀初頭には世界の馬の三分の一をも所有していたそうです。
そんな馬の王国だけに、サラブレッドという優れた競走種が発達したときにはいちはやく輸入していました。19世紀後半からロシア革命までの間に、英国三冠馬ガルティモアを筆頭に、多くの優れたサラブレッドが輸入され、馬産に関する伝統、技術や優れた環境を考えれば、優秀なサラブレッドがたくさん育てられて良いはずです。
しかし、ロシアがサラブレッド競馬の国際舞台に長く登場しませんでした。
ひとつは、ロシアではトロット競争のほうに伝統があり、人気を集めていたためだと思われます。トロットの名馬たちの名前が、革命前のロシアのスポーツ新聞に踊っていたようです。
もうひとつは、ドン河流域の馬産地が、クリミア戦争、ロシア・トルコ戦争、ロシア革命などで、激しい戦地になり続けたせいかも知れません。
そんななかでも、19世紀のロシア・サラブレッドの血統を現代に伝えているのは、ソビエト政権樹立後のロシアで抜群の種牡馬成績を残した、タゴールという馬です。
馬のトルストイは、かなりの良血です。
お父さんは、日本競馬界きっての英雄、ディープインパクトです。
お母さんのグレースアドマイヤは重賞を勝てなかったが、府中牝馬ステークスで2着し、G1のエリザベス女王杯では6着に入っていたオープン馬です。グレースアドマイヤの母はアイルランド産のバレークイーン、未出走ですが、オークス、ヨークシャーオークス、セントレジャーを制した名牝サンプリンセスを母に持つ良血馬です。バレークイーンは日本に輸入されるや、いきなり1996年のダービーを勝ったフサイチコンコルドを出し、さらにグレースアドマイヤの後も、2009年の皐月賞を勝ったアンライバルドなどを輩出しています。
グレースアドマイヤの子供からも、2007年の皐月賞を勝ったヴィクトリーや、2006年の天皇賞・春でディープインパクトの2着に入ったリンカーンが出ています。
マドリードのカフェで、アーネスト・ヘミングウェイが一人の記者とこんな会話を交わしました。
ヘミングウェイ: 君はレースを見に出かけるかい?
記者: ええ、ちょいちょい。
ヘミングウェイ: じゃあレーシング・フォームを読んだだろう......。ほんとの小説技術ってのはあれさ。
このエピソードは、私が知っているだけでも、寺山修司はそのエッセイに二度引用しています。
「レーシング・フォーム」は、言わずと知れた、百年以上の歴史を持つ、世界でもっとも著名な競馬新聞のひとつです。各レースに出走する全競走馬の豊富な情報を列記した一覧表を掲載しているのが特徴です。そこには、過去の細かい経歴だけでなく、父、母、兄弟、生まれ故郷のすべてが明記されています。
日本の競馬専門紙の馬柱も、小さい空間に様々な情報を詰め込んでいますが、それよりさらに情報が膨大で、ぶっ厚い新聞だと思ってよいかと思います。
「あれが、経験の集積であるのか、物語の集積であるのかを決めるのは、読者のたのしみというものだろう」
と言ったのが、当の寺山修司です。
ビッグデータの時代ゆえ、親や兄弟に名馬、活躍馬を持つトルストイは、いわゆる超良血馬として、必然的に多くの期待を集めています。
しかし期待された通りに必ずしも走らないのも、競馬の世界ではよくある話です。
トルストイはデビューしてから4回レースに出走し、うち3回が単勝一番人気に支持された(もう1回は二番人気)ものの、最高でも3着止まりで、いまのところ、高い期待に応えられていません。
ちなみにトルストイのひとつ上の兄に、シェクスピアという馬がいましたが、デビュー戦(やはり単勝一番人気)で6着に敗れた後、2戦目のレース中の故障が原因で予後不良、亡くなったそうです。
もちろん、競馬のほうの話です。
トルストイは2010年、ロシアの文豪レフ・トルストイが没後百周年の年に生まれ、いまJRA栗東・音無厩舎に所属している馬です。
レオ・トルストイの名著「アンナ・カレーニナ」に、競馬場のシーンが描かれています。
アンナが、恋人のヴロンスキーの落馬に動揺し、浮気が夫に疑われてしまう、あの有名な場面です。
実は19世紀は、ロシアの競馬人気がもっとも頂点に達した時期で、モスクワの競馬場に上流階級やお金持ちの人々が集まっていたようです。
そもそもロシアにはアラブ、ドン、アカールテケ(http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/10/22/1866220)などの基礎血統や、オルロフ・トロッターなどの改良種がそろい、20世紀初頭には世界の馬の三分の一をも所有していたそうです。
そんな馬の王国だけに、サラブレッドという優れた競走種が発達したときにはいちはやく輸入していました。19世紀後半からロシア革命までの間に、英国三冠馬ガルティモアを筆頭に、多くの優れたサラブレッドが輸入され、馬産に関する伝統、技術や優れた環境を考えれば、優秀なサラブレッドがたくさん育てられて良いはずです。
しかし、ロシアがサラブレッド競馬の国際舞台に長く登場しませんでした。
ひとつは、ロシアではトロット競争のほうに伝統があり、人気を集めていたためだと思われます。トロットの名馬たちの名前が、革命前のロシアのスポーツ新聞に踊っていたようです。
もうひとつは、ドン河流域の馬産地が、クリミア戦争、ロシア・トルコ戦争、ロシア革命などで、激しい戦地になり続けたせいかも知れません。
そんななかでも、19世紀のロシア・サラブレッドの血統を現代に伝えているのは、ソビエト政権樹立後のロシアで抜群の種牡馬成績を残した、タゴールという馬です。
馬のトルストイは、かなりの良血です。
お父さんは、日本競馬界きっての英雄、ディープインパクトです。
お母さんのグレースアドマイヤは重賞を勝てなかったが、府中牝馬ステークスで2着し、G1のエリザベス女王杯では6着に入っていたオープン馬です。グレースアドマイヤの母はアイルランド産のバレークイーン、未出走ですが、オークス、ヨークシャーオークス、セントレジャーを制した名牝サンプリンセスを母に持つ良血馬です。バレークイーンは日本に輸入されるや、いきなり1996年のダービーを勝ったフサイチコンコルドを出し、さらにグレースアドマイヤの後も、2009年の皐月賞を勝ったアンライバルドなどを輩出しています。
グレースアドマイヤの子供からも、2007年の皐月賞を勝ったヴィクトリーや、2006年の天皇賞・春でディープインパクトの2着に入ったリンカーンが出ています。
マドリードのカフェで、アーネスト・ヘミングウェイが一人の記者とこんな会話を交わしました。
ヘミングウェイ: 君はレースを見に出かけるかい?
記者: ええ、ちょいちょい。
ヘミングウェイ: じゃあレーシング・フォームを読んだだろう......。ほんとの小説技術ってのはあれさ。
このエピソードは、私が知っているだけでも、寺山修司はそのエッセイに二度引用しています。
「レーシング・フォーム」は、言わずと知れた、百年以上の歴史を持つ、世界でもっとも著名な競馬新聞のひとつです。各レースに出走する全競走馬の豊富な情報を列記した一覧表を掲載しているのが特徴です。そこには、過去の細かい経歴だけでなく、父、母、兄弟、生まれ故郷のすべてが明記されています。
日本の競馬専門紙の馬柱も、小さい空間に様々な情報を詰め込んでいますが、それよりさらに情報が膨大で、ぶっ厚い新聞だと思ってよいかと思います。
「あれが、経験の集積であるのか、物語の集積であるのかを決めるのは、読者のたのしみというものだろう」
と言ったのが、当の寺山修司です。
ビッグデータの時代ゆえ、親や兄弟に名馬、活躍馬を持つトルストイは、いわゆる超良血馬として、必然的に多くの期待を集めています。
しかし期待された通りに必ずしも走らないのも、競馬の世界ではよくある話です。
トルストイはデビューしてから4回レースに出走し、うち3回が単勝一番人気に支持された(もう1回は二番人気)ものの、最高でも3着止まりで、いまのところ、高い期待に応えられていません。
ちなみにトルストイのひとつ上の兄に、シェクスピアという馬がいましたが、デビュー戦(やはり単勝一番人気)で6着に敗れた後、2戦目のレース中の故障が原因で予後不良、亡くなったそうです。
競馬場のヘミングウェイ ― 2013-03-09 23:05:11
先週の弥生賞に、エピファネイア、コディーノ、キズナなど今年のクラシックを狙う若駒の有力どころが出走し、2強や3強と呼ばれ、人気を博しました。
しかし、僕が注目したのは、前記の3頭からちょっと離れた4番人気に押された、藤原英昭厩舎のヘミングウェイです。
9番人気ながら2着に突っ込んできた前走のシンザン記念を含め、デビューから6戦して1勝2着5回という、なかなか勝ち切れないが、崩れもしない安定した成績を持つ馬です。
ヘミングウェイの馬主は、世界の競馬界を席巻している、ドバイのシェイク・モハメド殿下です。馬名は、アメリカの小説家の名前から、と出馬表プログラムに書かれているので、アーネスト・ヘミングウェイに因んだものだと思われます。
井崎脩五郎の著作で読みましたが、あるとき、アーネスト・ヘミングウェイは競馬場のスタンドで、顔見知りの新聞記者にこう語ったそうです。
「競馬場には、たった二種類のタイプの人間しかいないな」
「どういうタイプですか」と新聞記者が聞くと、ヘミングウェイは、「損している人間と、得している人間さ」、と答えました。
「馬券が当たっている人間と、外れている人間、という意味ですね?」
「いや、違うよ。」
ヘミングウェイは笑いながら答えました。
「競馬ファンとスリ、しかいないという意味さ」
当時の競馬場に、いかにスリが多かった、という意味も込めているかも知れませんが、まともな競馬ファンは、誰もがみな損していることを、やはり皮肉ったのでしょう。
これはどこの競馬場で交わした会話なのかと言うと、好事者が調べてくれまして、時代的背景も含め、フランスのロンシャン競馬場ではないか、という推測が出ています。
ヘミングウェイは、猛獣狩りや大物釣りを愛した豪放な文豪というイメージを一般的に抱かれていますが、もちろん彼にも若いときがありました。パリ時代、シェイクスピア書店に通い、貧困と戦いながら新しい文学を模索していた二十台のアーネスト・ヘミングウェイは、当時の写真に写る風貌も若々しく、精神的にも柔軟で繊細だったようです。
しかし、のちの文豪の心に潜んでいる根源的なものは、一貫して存在していたとも言われています。
パリ時代より前の1918年、アメリカ赤十字社の救急要員として第一次世界大戦に参加していたヘミングウェイは、オーストリア軍の放った砲弾の破片を体中に浴び、重傷を負いました。戦争の惨禍を目にし、突然襲ってくる死の不条理性を、このとき、嫌と言うほど思い知らされました。
パリに移り住んでからも、彼は「トロント・スター」紙の通信員として、激動する世界の現場に何度も立ち会っていました(http://tbbird.asablo.jp/blog/2011/03/30/5764496)。
1922年9月、ヘミングウェイはコンスタンティノーブルに渡って、ギリシャ・トルコ戦争を取材しました。10月には撤退するギリシャ軍や避難民の悲惨な実情も目撃し、死が日常茶飯のように繰り返された世界の悲惨さ、不条理を、心のなかに刻み、後々まで彼の作品に反映し続けたかも知れません。
アーネスト・ヘミングウェイは書きました。
「競馬場では、軽い死を、何度も味わうことができる。希望や確信の、絶望的な破綻。そのたびに我々は、一瞬、死を実感する。すべてから開放される、どこか甘美なその感覚を忘れることができずに、我々は、当たるあてのないものに賭けるのだ......」
作品の中で死と向かい合い続けたヘミングウェイにとって、競馬場もまた、死を凝視する場所のひとつだったかも知れません。
馬のほうのヘミングウェイは、弥生賞では初めて6着に沈み、そして本日になって、脚部の骨折が判明しました。
「来週にも手術をする。(中略) 秋の復帰を目指していく」と藤原英師がインタビューに答えたそうです。
しかし、僕が注目したのは、前記の3頭からちょっと離れた4番人気に押された、藤原英昭厩舎のヘミングウェイです。
9番人気ながら2着に突っ込んできた前走のシンザン記念を含め、デビューから6戦して1勝2着5回という、なかなか勝ち切れないが、崩れもしない安定した成績を持つ馬です。
ヘミングウェイの馬主は、世界の競馬界を席巻している、ドバイのシェイク・モハメド殿下です。馬名は、アメリカの小説家の名前から、と出馬表プログラムに書かれているので、アーネスト・ヘミングウェイに因んだものだと思われます。
井崎脩五郎の著作で読みましたが、あるとき、アーネスト・ヘミングウェイは競馬場のスタンドで、顔見知りの新聞記者にこう語ったそうです。
「競馬場には、たった二種類のタイプの人間しかいないな」
「どういうタイプですか」と新聞記者が聞くと、ヘミングウェイは、「損している人間と、得している人間さ」、と答えました。
「馬券が当たっている人間と、外れている人間、という意味ですね?」
「いや、違うよ。」
ヘミングウェイは笑いながら答えました。
「競馬ファンとスリ、しかいないという意味さ」
当時の競馬場に、いかにスリが多かった、という意味も込めているかも知れませんが、まともな競馬ファンは、誰もがみな損していることを、やはり皮肉ったのでしょう。
これはどこの競馬場で交わした会話なのかと言うと、好事者が調べてくれまして、時代的背景も含め、フランスのロンシャン競馬場ではないか、という推測が出ています。
ヘミングウェイは、猛獣狩りや大物釣りを愛した豪放な文豪というイメージを一般的に抱かれていますが、もちろん彼にも若いときがありました。パリ時代、シェイクスピア書店に通い、貧困と戦いながら新しい文学を模索していた二十台のアーネスト・ヘミングウェイは、当時の写真に写る風貌も若々しく、精神的にも柔軟で繊細だったようです。
しかし、のちの文豪の心に潜んでいる根源的なものは、一貫して存在していたとも言われています。
パリ時代より前の1918年、アメリカ赤十字社の救急要員として第一次世界大戦に参加していたヘミングウェイは、オーストリア軍の放った砲弾の破片を体中に浴び、重傷を負いました。戦争の惨禍を目にし、突然襲ってくる死の不条理性を、このとき、嫌と言うほど思い知らされました。
パリに移り住んでからも、彼は「トロント・スター」紙の通信員として、激動する世界の現場に何度も立ち会っていました(http://tbbird.asablo.jp/blog/2011/03/30/5764496)。
1922年9月、ヘミングウェイはコンスタンティノーブルに渡って、ギリシャ・トルコ戦争を取材しました。10月には撤退するギリシャ軍や避難民の悲惨な実情も目撃し、死が日常茶飯のように繰り返された世界の悲惨さ、不条理を、心のなかに刻み、後々まで彼の作品に反映し続けたかも知れません。
アーネスト・ヘミングウェイは書きました。
「競馬場では、軽い死を、何度も味わうことができる。希望や確信の、絶望的な破綻。そのたびに我々は、一瞬、死を実感する。すべてから開放される、どこか甘美なその感覚を忘れることができずに、我々は、当たるあてのないものに賭けるのだ......」
作品の中で死と向かい合い続けたヘミングウェイにとって、競馬場もまた、死を凝視する場所のひとつだったかも知れません。
馬のほうのヘミングウェイは、弥生賞では初めて6着に沈み、そして本日になって、脚部の骨折が判明しました。
「来週にも手術をする。(中略) 秋の復帰を目指していく」と藤原英師がインタビューに答えたそうです。
ロバのパン屋さん ― 2012-12-25 21:00:10
ロバノパンヤという名前の競走馬が活躍したのは前世紀末です。
1999年のユニコーンステークスでウイングアローの2着に、大井のスーパーダートダービーで同じくウイングアローの3着に入ったとき、重賞のひとつやふたつはすぐに勝てるだろう、と思っていました。
「かもがわ出版」から出ている「ロバのパン物語」(南浦邦仁)を、神保町(新刊書店)で購入したのは、その頃です。
本は、当然でしょうが、ロバノパンヤ号とは直接関係がなく、「ロバのおじさんチンカラリン、チンカラリンロンやってくる......」のテーマソングで知られるロバのパンの話です。
「ロバのパン本部」の正式名称は「株式会社ビタミンパン連鎖店本部」と言って、先代の桑原貞吉が昭和二年京都でまんじゅうと蒸しパンを始めたのが、そのルーツらしいです。
ロバのパン屋と言っても、ビタミンパン連鎖店グループで馬車を引いていたのは、木曽馬など小型の在来馬でした。大阪の「ロバのパン本舗」で一度だけロバに車を引かせたことがありましたが、日本ではなかなかロバは手に入らず、やっと手に入れた一頭も老齢のせいか、なかなか言う通り働けず、ロバの行商は一日でやめたそうです。
ビタミンパンの全盛期は昭和30年代ですが、その後も営業は続いています。
もちろん馬車ではなく、軽トラックでの販売に変わっていましたが、僕が大阪で大学生をやっていた頃にもまた見かけることがあります。しかし、どうも関東に住む人に聞くと、ロバのパンは知らないと言う人が多いです。「ロバのパン物語」の記載によれば、数は少ないものの、全盛期は東京、神奈川県など東日本にも加盟店があったはずですが。
「ロバのパン物語」の本に、シングルCDが1枚付いて、近藤圭子の歌う「パン売りのロバさん」が聞けるようになっています。
ちなみに、同期のウイングアローのほうはJapan CupダートやフェブラリーSなど、G1レースでも好走し続けていたのに対して、競走馬のロバノパンヤは、当初期待されたほどは活躍せず、準オープンで1勝を上げただけで、オープンや重賞での勝ち鞍は、つい最後までなかったと思います。
1999年のユニコーンステークスでウイングアローの2着に、大井のスーパーダートダービーで同じくウイングアローの3着に入ったとき、重賞のひとつやふたつはすぐに勝てるだろう、と思っていました。
「かもがわ出版」から出ている「ロバのパン物語」(南浦邦仁)を、神保町(新刊書店)で購入したのは、その頃です。
本は、当然でしょうが、ロバノパンヤ号とは直接関係がなく、「ロバのおじさんチンカラリン、チンカラリンロンやってくる......」のテーマソングで知られるロバのパンの話です。
「ロバのパン本部」の正式名称は「株式会社ビタミンパン連鎖店本部」と言って、先代の桑原貞吉が昭和二年京都でまんじゅうと蒸しパンを始めたのが、そのルーツらしいです。
ロバのパン屋と言っても、ビタミンパン連鎖店グループで馬車を引いていたのは、木曽馬など小型の在来馬でした。大阪の「ロバのパン本舗」で一度だけロバに車を引かせたことがありましたが、日本ではなかなかロバは手に入らず、やっと手に入れた一頭も老齢のせいか、なかなか言う通り働けず、ロバの行商は一日でやめたそうです。
ビタミンパンの全盛期は昭和30年代ですが、その後も営業は続いています。
もちろん馬車ではなく、軽トラックでの販売に変わっていましたが、僕が大阪で大学生をやっていた頃にもまた見かけることがあります。しかし、どうも関東に住む人に聞くと、ロバのパンは知らないと言う人が多いです。「ロバのパン物語」の記載によれば、数は少ないものの、全盛期は東京、神奈川県など東日本にも加盟店があったはずですが。
「ロバのパン物語」の本に、シングルCDが1枚付いて、近藤圭子の歌う「パン売りのロバさん」が聞けるようになっています。
ちなみに、同期のウイングアローのほうはJapan CupダートやフェブラリーSなど、G1レースでも好走し続けていたのに対して、競走馬のロバノパンヤは、当初期待されたほどは活躍せず、準オープンで1勝を上げただけで、オープンや重賞での勝ち鞍は、つい最後までなかったと思います。
オルフェーヴルとフランケル ― 2012-11-19 21:37:11
武豊騎手の久々のG1勝利に沸いたマイルチャンピオンシップが終わっても、秋競馬のG1シリーズはますます佳境で、今週末はいよいよオルフェーヴルが出走するジャパンカップです。
去年の牡馬3冠馬オルフェーヴルに、今年の牝馬3冠馬ジェンティルドンナが挑戦する、という図式で見ることもできますし、今年の凱旋門賞馬ソレミアに、ゴール寸前に栄冠をこぼしたオルフェーヴルがリベンジする、という図式で見ることもできます。
もちろん、天皇賞で復活した先輩ダービー馬のエイシンフラッシュも、香港でのG1勝利を手土産に再度頂点に挑むルーラーシップも、レベルが高いと噂される3歳牡馬の代表・フェノーメノもいます。しかし衆目するところ、やはり主役はオルフェーヴルを置いてほかにないでしょう。
日本馬による凱旋門賞初制覇の夢は、残念ながら叶わなかったが、今年の凱旋門賞でオルフェーヴルが見せたパフォーマンスは素晴らしいものであり、フランケルに勝つ可能性がある現役唯一の馬、だと言い放ったイギリス人がいるぐらいです。
来年も現役で走るかどうかわかりませんが、まずはジャパンカップで胸のすく走りを見せてほしいです。
さて、引き合いに出された同じ歳の英国調教馬・フランケル(Frankel)は、10月20日のチャンピオンステークスがラストランとなったようです。
今シーズンもG1レースばかりで5戦5勝し、2年連続カルティエ賞年度代表馬に選ばれ、生涯通算14戦全勝、無敗のままで引退が決まりました。
タイムフォーム誌のレイティングでは、シーバード(145)、ブリガディアジェラード(144)、テューダーミンストレル(144)に次いで歴代4位となる143ポンドが与えられ、言ってみれば、ここ40年間で最高の競走馬、という評価になります。
シーバードやブリガディアジェラードなら、ビデオでその圧倒的なレースは目にしました。しかし、やはり時代を共有していないためか、どうも凄さを肌でじかに感じ取れない部分もあります。もちろん対戦できない歴史上の名馬たちと比較するのは難しいですが、再三再四胸がすき、ついてに腹まですいてしまう快走を見せたフランケルなら、そうした伝説の名馬に伍しても、少しも遜色しないように思えます。
数十年後、若い競馬ファンに対して「私はフランケルをリアルタイムで見たぞ」、と自慢できることを思うと、ちょっと誇らしい気持ちになりました。
去年の牡馬3冠馬オルフェーヴルに、今年の牝馬3冠馬ジェンティルドンナが挑戦する、という図式で見ることもできますし、今年の凱旋門賞馬ソレミアに、ゴール寸前に栄冠をこぼしたオルフェーヴルがリベンジする、という図式で見ることもできます。
もちろん、天皇賞で復活した先輩ダービー馬のエイシンフラッシュも、香港でのG1勝利を手土産に再度頂点に挑むルーラーシップも、レベルが高いと噂される3歳牡馬の代表・フェノーメノもいます。しかし衆目するところ、やはり主役はオルフェーヴルを置いてほかにないでしょう。
日本馬による凱旋門賞初制覇の夢は、残念ながら叶わなかったが、今年の凱旋門賞でオルフェーヴルが見せたパフォーマンスは素晴らしいものであり、フランケルに勝つ可能性がある現役唯一の馬、だと言い放ったイギリス人がいるぐらいです。
来年も現役で走るかどうかわかりませんが、まずはジャパンカップで胸のすく走りを見せてほしいです。
さて、引き合いに出された同じ歳の英国調教馬・フランケル(Frankel)は、10月20日のチャンピオンステークスがラストランとなったようです。
今シーズンもG1レースばかりで5戦5勝し、2年連続カルティエ賞年度代表馬に選ばれ、生涯通算14戦全勝、無敗のままで引退が決まりました。
タイムフォーム誌のレイティングでは、シーバード(145)、ブリガディアジェラード(144)、テューダーミンストレル(144)に次いで歴代4位となる143ポンドが与えられ、言ってみれば、ここ40年間で最高の競走馬、という評価になります。
シーバードやブリガディアジェラードなら、ビデオでその圧倒的なレースは目にしました。しかし、やはり時代を共有していないためか、どうも凄さを肌でじかに感じ取れない部分もあります。もちろん対戦できない歴史上の名馬たちと比較するのは難しいですが、再三再四胸がすき、ついてに腹まですいてしまう快走を見せたフランケルなら、そうした伝説の名馬に伍しても、少しも遜色しないように思えます。
数十年後、若い競馬ファンに対して「私はフランケルをリアルタイムで見たぞ」、と自慢できることを思うと、ちょっと誇らしい気持ちになりました。
福島の馬と写真家 ― 2012-05-14 23:28:58
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横浜に住む馬好きによれば、この前の子供の日、根岸競馬記念公苑では「相馬野馬追」を紹介するイベントがあったそうです。
むかし野馬追祭は5月中の申の日に行われるものですが、旧暦だったので、いまでは7月の行事としてあらためています。
その歴史は古く、相馬氏の遠祖・平将門まで遡ると言われています。元享三年(1323年)、相馬孫五郎重胤が下総より奥州行方郡に封を移し、雲雀ヶ原で行われるようになったのが、いまの相馬野馬追の起源だそうです。
雑誌「太陽」の1971年の11月号がいま手元にあります。「馬と人と大地の祭り」と題し、大判の写真とともに、古山高麗雄が相馬野馬追について書いた文章が掲載されています。上の話はその受け売りです。
記事の写真は秋山忠右と佐藤晴雄によるものです。佐藤晴雄は存知しておりませんが、秋山忠右は「くにざかい」などを撮った、素晴らしい社会派写真家で知られています。だいぶ若い頃の写真でしたね。
「馬を飼う相馬地方の家は、年々減少の途をたどっている。原町市についていえば、昭和37年には686頭いた馬が、45年には五分の一足らずの128頭に減ってしまった。」と記事にあります。
現在では、さらに減ってしまったのではないでしょうか。本祭りでは500頭もの馬が集められ、規模としては国内最大ですが、多くは関東圏からのレンタルになったようです。
さて、冒頭の写真は、石原徳太郎によって刊行された「大日本博覧絵」という銅版画集の1ページです。「福島県 産馬会社」と題がつけられていますが、描かれているのは、明治初期、労働力としての優秀な馬を生産、育成する目的で設立された「須賀川産馬会社」です。
「近代デジタルライブラリー」を眺めたときに見つけた1枚(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/853938)ですが、調べてみたら、その下図となっている写真が地元に残されているそうです。撮ったのは写真師の松崎晋二、明治9年5月31日に撮影されたものです。
この松崎晋二は、僕は出久根達郎の随筆で知りました。
わが国最初の従軍写真師だそうです。と言っても日清戦争や日露戦争ではなく、明治7年の、いわゆる台湾出兵(宮古島の漁船が難破し、台湾に漂着して殺害されました。新政府不平士族の不満をそらすために出兵を強行したと言われている)のときです。
松崎晋二はその台湾の写真と、小笠原で撮影した写真を、一般向けに売りに出しました。いまはほとんど残っていないらしいですが。
松崎晋二は「写真必用写客の心得」という小冊子も出版しています。こちらは「近代デジタルライブラリー」にあり、一応読むことができました。
明治9年の東北・北海道巡幸に際し、松崎は福島県庁からの依頼により半田銀山・二本松製糸会社など県内の殖産興業施設や名所旧跡を事前に撮影して天覧に供しておりましたが、そのなかの1枚が上記の須賀川産馬会社の写真でした。
むかし福島県は馬産地として有名でした。
僕が競馬を見始めた頃、CBC賞など重賞を3勝したトーアファルコン(http://db.netkeiba.com/horse/1981100431/)は、当時すでに珍しくなった福島県産の活躍馬として知られていました。
名馬ビワハヤヒデも表記上は福島県産ですが、こちらは輸入馬の母馬が北海道に運ぶ前に産気づいてしまい、急遽福島県桑折町にある早田牧場本場で出産させたためです。交配はアメリカで行われた、いわゆる持込み馬です。
福島の浜通りには馬産で知られる双葉郡葛尾村がありますが、去年の震災および原発事故の影響により、残念ながら、葛尾村で唯一残っていた篠木牧場は、廃業に追い込まれたそうです。
もしかして、福島県産馬が競馬場で走ることは、今後、もうなくなるかも知れません。
横浜に住む馬好きによれば、この前の子供の日、根岸競馬記念公苑では「相馬野馬追」を紹介するイベントがあったそうです。
むかし野馬追祭は5月中の申の日に行われるものですが、旧暦だったので、いまでは7月の行事としてあらためています。
その歴史は古く、相馬氏の遠祖・平将門まで遡ると言われています。元享三年(1323年)、相馬孫五郎重胤が下総より奥州行方郡に封を移し、雲雀ヶ原で行われるようになったのが、いまの相馬野馬追の起源だそうです。
雑誌「太陽」の1971年の11月号がいま手元にあります。「馬と人と大地の祭り」と題し、大判の写真とともに、古山高麗雄が相馬野馬追について書いた文章が掲載されています。上の話はその受け売りです。
記事の写真は秋山忠右と佐藤晴雄によるものです。佐藤晴雄は存知しておりませんが、秋山忠右は「くにざかい」などを撮った、素晴らしい社会派写真家で知られています。だいぶ若い頃の写真でしたね。
「馬を飼う相馬地方の家は、年々減少の途をたどっている。原町市についていえば、昭和37年には686頭いた馬が、45年には五分の一足らずの128頭に減ってしまった。」と記事にあります。
現在では、さらに減ってしまったのではないでしょうか。本祭りでは500頭もの馬が集められ、規模としては国内最大ですが、多くは関東圏からのレンタルになったようです。
さて、冒頭の写真は、石原徳太郎によって刊行された「大日本博覧絵」という銅版画集の1ページです。「福島県 産馬会社」と題がつけられていますが、描かれているのは、明治初期、労働力としての優秀な馬を生産、育成する目的で設立された「須賀川産馬会社」です。
「近代デジタルライブラリー」を眺めたときに見つけた1枚(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/853938)ですが、調べてみたら、その下図となっている写真が地元に残されているそうです。撮ったのは写真師の松崎晋二、明治9年5月31日に撮影されたものです。
この松崎晋二は、僕は出久根達郎の随筆で知りました。
わが国最初の従軍写真師だそうです。と言っても日清戦争や日露戦争ではなく、明治7年の、いわゆる台湾出兵(宮古島の漁船が難破し、台湾に漂着して殺害されました。新政府不平士族の不満をそらすために出兵を強行したと言われている)のときです。
松崎晋二はその台湾の写真と、小笠原で撮影した写真を、一般向けに売りに出しました。いまはほとんど残っていないらしいですが。
松崎晋二は「写真必用写客の心得」という小冊子も出版しています。こちらは「近代デジタルライブラリー」にあり、一応読むことができました。
明治9年の東北・北海道巡幸に際し、松崎は福島県庁からの依頼により半田銀山・二本松製糸会社など県内の殖産興業施設や名所旧跡を事前に撮影して天覧に供しておりましたが、そのなかの1枚が上記の須賀川産馬会社の写真でした。
むかし福島県は馬産地として有名でした。
僕が競馬を見始めた頃、CBC賞など重賞を3勝したトーアファルコン(http://db.netkeiba.com/horse/1981100431/)は、当時すでに珍しくなった福島県産の活躍馬として知られていました。
名馬ビワハヤヒデも表記上は福島県産ですが、こちらは輸入馬の母馬が北海道に運ぶ前に産気づいてしまい、急遽福島県桑折町にある早田牧場本場で出産させたためです。交配はアメリカで行われた、いわゆる持込み馬です。
福島の浜通りには馬産で知られる双葉郡葛尾村がありますが、去年の震災および原発事故の影響により、残念ながら、葛尾村で唯一残っていた篠木牧場は、廃業に追い込まれたそうです。
もしかして、福島県産馬が競馬場で走ることは、今後、もうなくなるかも知れません。
馬の走り方 ― 2012-04-09 23:02:47

今日(4月9日)のGoogleロゴは、疾走する馬のアニメーションです。
カーソルを合わせると、「エドワード・マイブリッジ生誕182周年」の文字が見えてきますが、エドワード・マイブリッジはイギリス出身の写真家です。元カリフォルニア州知事のリーランド・スタンフォードから依頼を受け、走る馬の4本の足がすべて地面から離れる瞬間の写真を初めて撮影した人です。
疾走する馬が全部の足を同時に地面から離すことがあるかどうか、というのは、手元の「馬のすべてがわかる本」(原田俊治、PHP文庫)によると、実は古代ギリシャから綿々と続いていた議論のテーマでした。
しかしなにしろ疾走する馬の足の動きが速くて、観察者は自分の見ているものに確信を持てなかったのであります。
エドワード・マイブリッジは独創的な撮影方法を考案し、苦労した末に依頼をみごと応えました。また、そのために考案した連続写真の撮影方法は、後に映写機、映画の誕生に結びついたとも言われ、カメラの歴史の本には必ずと言って良いほど、取り上げられています。
運動中の馬の足の運びは、馬術家によると10種類以上と数えられますが、常歩(なみあし)、速歩(はやあし)、および駆歩(かけあし)の3つに分類することが多いです。
常歩とは、馬がゆっくり自然に歩いている状態です。一歩ずつ等間隔に移動し、蹄音は4拍子、全部の足が同時に地面を離れることはありません。
速歩とは、前後の足二本が一組となって同時に地面を離れ、同時に着地する歩様です。トロット(Trot、斜対歩)とペース(Pace、側対歩)の2種類に大別でき、前者は斜め前後の2本(左前と右後、または右前と左後)が同時に動き、後者は同じ側の2本(左前と右後、または右前と左後)が同時に動く走り方です。
駆歩は、最もスピードの速い歩様です。そのなか、日本語で競走駆歩もしくは襲歩とも呼ばれるのがギャロップで、緩駆歩の訳が割り当てられるのがキャンターです。ギャロップの蹄音は四拍子、右後→左後→右前→左前、もしくは左後→右後→左前→右前の順で着地します。キャンターの蹄音は三拍子、右後→左後と右前同時→左前、もしくは左後→右後と左前同時→右前の順で着地します。いずれも全部の足が地面から離れる浮遊期は、一完歩ごとに一度発生します。
速歩でも、全部の足が地面から離れることが、ごく短時間ですが、一完歩ごと二度生じることがあるそうです。「馬のすべてがわかる本」によると、エドワード・マイブリッジが撮影して、その事実を突き止めたそうですが、少なくともGoogleロゴに載っているのは、速歩中の馬ではなく、明らかに馬がギャロップしているときの写真です。
日本でもかつて速歩競走が多く行われましたが、だいぶ前に書いた(http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/04/26/1466536)ように、キャンターだけでなく、ペースも異歩法とされ、失格の対象です。アメリカなどでは、速歩競走のなかでもトロットとペースのレースが約半々だったようです。
同じ側の手と足が同時に動くと、たどたどしい幼稚園児の行進を思い浮かびそうですが、馬の場合、ペースするときに後肢の踏み込みが前肢にぶつかることがなく、歩幅を大きく踏み込める利点があります。また、左右の動きが大きくなる代わり、上下の動きは少なく、馬車を引くとも安定性も良いと言われ、わざわざその歩様ができるように調教されています。
実はモンゴル馬や北海道和種は、基本的に側対歩で走ると聞きます。象、ラクダ、ライオンなどもそうです。
「馬たちの33章」(早坂昇治、緑書房)によれば、昔の武士が乗る馬は側対歩で走ることが要求されるそうです。馬上から矢を射る場合、上下動が少ない側対歩が良いとされ、側対歩のできない馬の調教法などが馬術伝書に記されています。
ついてに、時代劇で俳優さんが馬の左側から乗ることをよく見かけますが、これは時代考証の誤りです。西洋式の馬文化が入る幕末以降ならいざ知らず、昔の武士が馬に乗るときは、必ず右側から乗っていました。室町時代以降、様々な馬術の流儀が生まれましたが、すべて右乗りが原則でした。
カーソルを合わせると、「エドワード・マイブリッジ生誕182周年」の文字が見えてきますが、エドワード・マイブリッジはイギリス出身の写真家です。元カリフォルニア州知事のリーランド・スタンフォードから依頼を受け、走る馬の4本の足がすべて地面から離れる瞬間の写真を初めて撮影した人です。
疾走する馬が全部の足を同時に地面から離すことがあるかどうか、というのは、手元の「馬のすべてがわかる本」(原田俊治、PHP文庫)によると、実は古代ギリシャから綿々と続いていた議論のテーマでした。
しかしなにしろ疾走する馬の足の動きが速くて、観察者は自分の見ているものに確信を持てなかったのであります。
エドワード・マイブリッジは独創的な撮影方法を考案し、苦労した末に依頼をみごと応えました。また、そのために考案した連続写真の撮影方法は、後に映写機、映画の誕生に結びついたとも言われ、カメラの歴史の本には必ずと言って良いほど、取り上げられています。
運動中の馬の足の運びは、馬術家によると10種類以上と数えられますが、常歩(なみあし)、速歩(はやあし)、および駆歩(かけあし)の3つに分類することが多いです。
常歩とは、馬がゆっくり自然に歩いている状態です。一歩ずつ等間隔に移動し、蹄音は4拍子、全部の足が同時に地面を離れることはありません。
速歩とは、前後の足二本が一組となって同時に地面を離れ、同時に着地する歩様です。トロット(Trot、斜対歩)とペース(Pace、側対歩)の2種類に大別でき、前者は斜め前後の2本(左前と右後、または右前と左後)が同時に動き、後者は同じ側の2本(左前と右後、または右前と左後)が同時に動く走り方です。
駆歩は、最もスピードの速い歩様です。そのなか、日本語で競走駆歩もしくは襲歩とも呼ばれるのがギャロップで、緩駆歩の訳が割り当てられるのがキャンターです。ギャロップの蹄音は四拍子、右後→左後→右前→左前、もしくは左後→右後→左前→右前の順で着地します。キャンターの蹄音は三拍子、右後→左後と右前同時→左前、もしくは左後→右後と左前同時→右前の順で着地します。いずれも全部の足が地面から離れる浮遊期は、一完歩ごとに一度発生します。
速歩でも、全部の足が地面から離れることが、ごく短時間ですが、一完歩ごと二度生じることがあるそうです。「馬のすべてがわかる本」によると、エドワード・マイブリッジが撮影して、その事実を突き止めたそうですが、少なくともGoogleロゴに載っているのは、速歩中の馬ではなく、明らかに馬がギャロップしているときの写真です。
日本でもかつて速歩競走が多く行われましたが、だいぶ前に書いた(http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/04/26/1466536)ように、キャンターだけでなく、ペースも異歩法とされ、失格の対象です。アメリカなどでは、速歩競走のなかでもトロットとペースのレースが約半々だったようです。
同じ側の手と足が同時に動くと、たどたどしい幼稚園児の行進を思い浮かびそうですが、馬の場合、ペースするときに後肢の踏み込みが前肢にぶつかることがなく、歩幅を大きく踏み込める利点があります。また、左右の動きが大きくなる代わり、上下の動きは少なく、馬車を引くとも安定性も良いと言われ、わざわざその歩様ができるように調教されています。
実はモンゴル馬や北海道和種は、基本的に側対歩で走ると聞きます。象、ラクダ、ライオンなどもそうです。
「馬たちの33章」(早坂昇治、緑書房)によれば、昔の武士が乗る馬は側対歩で走ることが要求されるそうです。馬上から矢を射る場合、上下動が少ない側対歩が良いとされ、側対歩のできない馬の調教法などが馬術伝書に記されています。
ついてに、時代劇で俳優さんが馬の左側から乗ることをよく見かけますが、これは時代考証の誤りです。西洋式の馬文化が入る幕末以降ならいざ知らず、昔の武士が馬に乗るときは、必ず右側から乗っていました。室町時代以降、様々な馬術の流儀が生まれましたが、すべて右乗りが原則でした。
【メモ】ロンシャン競馬場の落成 ― 2011-08-17 22:03:03
「19世紀フランス 光と闇の空間 ~挿絵入り新聞『イリュストラシオン』にたどる」(小倉孝誠、人文書院)を、いま読んでいます。
ブローニュの森に、1900メートルと2800メートルの2つのコース、パドック、五千人を収容できる観覧席、ビュッフェ等が整備されたロンシャン競馬場が落成したのは1857年4月26日です。パリの都市改造などに尽力したことによりその名を歴史に残したジョルジュ・オスマンは、その日のことを、「私の知事在職中もっとも幸せだった一日」だと、その「回想録」に記しました。
1857年5月の「イリュストラシオン」も、2ページにわたる大きな図版を掲載し、競馬場の完成を報告しました:
「城壁内で古い界隈が取り壊され、大規模な公共事業と美化作業が行われ、パリは世界でも無比の首都になったが、この現代のバビロンには何かが欠けていた。競馬場が欠けていたのだ。......」
「今やパリは、この点でもっとも恵まれているイギリスの町と比べても何ら遜色ない。魔法のように広大で幻想的な公園に変貌したあの森の向こう側、城壁跡からほど遠くないところに、大きな競馬場ができたのである。それは有名ニューマーケットやエプソムにも匹敵しうるほどだ。」
ニューマーケットやエプソムの名前を挙げるほど、競馬の先進国イギリスをライバル視しているようです。
パリ郊外にはすでに1833年にシャンティー競馬場が作られていましたが、市街から60キロも離れているため、フランスの馬種改良促進協会はずっと市中心部に近い土地を物色していました。
ジョルジュ・オスマン知事の大工事により、広い空き地となったロンシャン修道院の跡地が、まさにそのぴったりの空間となったわけです。
ちなみに、障害レース用のオートイユ競馬場が森の東側にできたのは、さらに15年後です。
(http://tbbird.asablo.jp/blog/2008/02/18/2637841)
ブローニュの森に、1900メートルと2800メートルの2つのコース、パドック、五千人を収容できる観覧席、ビュッフェ等が整備されたロンシャン競馬場が落成したのは1857年4月26日です。パリの都市改造などに尽力したことによりその名を歴史に残したジョルジュ・オスマンは、その日のことを、「私の知事在職中もっとも幸せだった一日」だと、その「回想録」に記しました。
1857年5月の「イリュストラシオン」も、2ページにわたる大きな図版を掲載し、競馬場の完成を報告しました:
「城壁内で古い界隈が取り壊され、大規模な公共事業と美化作業が行われ、パリは世界でも無比の首都になったが、この現代のバビロンには何かが欠けていた。競馬場が欠けていたのだ。......」
「今やパリは、この点でもっとも恵まれているイギリスの町と比べても何ら遜色ない。魔法のように広大で幻想的な公園に変貌したあの森の向こう側、城壁跡からほど遠くないところに、大きな競馬場ができたのである。それは有名ニューマーケットやエプソムにも匹敵しうるほどだ。」
ニューマーケットやエプソムの名前を挙げるほど、競馬の先進国イギリスをライバル視しているようです。
パリ郊外にはすでに1833年にシャンティー競馬場が作られていましたが、市街から60キロも離れているため、フランスの馬種改良促進協会はずっと市中心部に近い土地を物色していました。
ジョルジュ・オスマン知事の大工事により、広い空き地となったロンシャン修道院の跡地が、まさにそのぴったりの空間となったわけです。
ちなみに、障害レース用のオートイユ競馬場が森の東側にできたのは、さらに15年後です。
(http://tbbird.asablo.jp/blog/2008/02/18/2637841)
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