競馬場のヘミングウェイ2013-03-09 23:05:11

 先週の弥生賞に、エピファネイア、コディーノ、キズナなど今年のクラシックを狙う若駒の有力どころが出走し、2強や3強と呼ばれ、人気を博しました。

 しかし、僕が注目したのは、前記の3頭からちょっと離れた4番人気に押された、藤原英昭厩舎のヘミングウェイです。
 9番人気ながら2着に突っ込んできた前走のシンザン記念を含め、デビューから6戦して1勝2着5回という、なかなか勝ち切れないが、崩れもしない安定した成績を持つ馬です。
 ヘミングウェイの馬主は、世界の競馬界を席巻している、ドバイのシェイク・モハメド殿下です。馬名は、アメリカの小説家の名前から、と出馬表プログラムに書かれているので、アーネスト・ヘミングウェイに因んだものだと思われます。


 井崎脩五郎の著作で読みましたが、あるとき、アーネスト・ヘミングウェイは競馬場のスタンドで、顔見知りの新聞記者にこう語ったそうです。
 「競馬場には、たった二種類のタイプの人間しかいないな」

 「どういうタイプですか」と新聞記者が聞くと、ヘミングウェイは、「損している人間と、得している人間さ」、と答えました。

 「馬券が当たっている人間と、外れている人間、という意味ですね?」
 「いや、違うよ。」
 ヘミングウェイは笑いながら答えました。
 「競馬ファンとスリ、しかいないという意味さ」

 当時の競馬場に、いかにスリが多かった、という意味も込めているかも知れませんが、まともな競馬ファンは、誰もがみな損していることを、やはり皮肉ったのでしょう。

 これはどこの競馬場で交わした会話なのかと言うと、好事者が調べてくれまして、時代的背景も含め、フランスのロンシャン競馬場ではないか、という推測が出ています。


 ヘミングウェイは、猛獣狩りや大物釣りを愛した豪放な文豪というイメージを一般的に抱かれていますが、もちろん彼にも若いときがありました。パリ時代、シェイクスピア書店に通い、貧困と戦いながら新しい文学を模索していた二十台のアーネスト・ヘミングウェイは、当時の写真に写る風貌も若々しく、精神的にも柔軟で繊細だったようです。
 しかし、のちの文豪の心に潜んでいる根源的なものは、一貫して存在していたとも言われています。

 パリ時代より前の1918年、アメリカ赤十字社の救急要員として第一次世界大戦に参加していたヘミングウェイは、オーストリア軍の放った砲弾の破片を体中に浴び、重傷を負いました。戦争の惨禍を目にし、突然襲ってくる死の不条理性を、このとき、嫌と言うほど思い知らされました。
 パリに移り住んでからも、彼は「トロント・スター」紙の通信員として、激動する世界の現場に何度も立ち会っていました(http://tbbird.asablo.jp/blog/2011/03/30/5764496)。
 1922年9月、ヘミングウェイはコンスタンティノーブルに渡って、ギリシャ・トルコ戦争を取材しました。10月には撤退するギリシャ軍や避難民の悲惨な実情も目撃し、死が日常茶飯のように繰り返された世界の悲惨さ、不条理を、心のなかに刻み、後々まで彼の作品に反映し続けたかも知れません。


 アーネスト・ヘミングウェイは書きました。
 「競馬場では、軽い死を、何度も味わうことができる。希望や確信の、絶望的な破綻。そのたびに我々は、一瞬、死を実感する。すべてから開放される、どこか甘美なその感覚を忘れることができずに、我々は、当たるあてのないものに賭けるのだ......」

 作品の中で死と向かい合い続けたヘミングウェイにとって、競馬場もまた、死を凝視する場所のひとつだったかも知れません。


 馬のほうのヘミングウェイは、弥生賞では初めて6着に沈み、そして本日になって、脚部の骨折が判明しました。
 「来週にも手術をする。(中略) 秋の復帰を目指していく」と藤原英師がインタビューに答えたそうです。

コメント

_ dragonfly ― 2013-03-18 01:42:27

Fujimotoさん、すてきな話をありがとうございます。競馬も闘牛も、ヘミングウェイには深い意味合いを持っていたのですね。
週末にロバート・キャパ展へ行ったら、ヘミングウェイと息子バンビがくつろぐ釣りの写真がありました。銀座ライカでも、おととしだったか、キャパにしか撮れないパパの狩りの写真を見ました。いい顔なんだよね。
馬のほうも見てみたい。これから検索します。

_ T.Fujimoto ― 2013-03-18 22:52:12

dragonflyさん、こんばんは。
そういえば、ヘミングウェイと闘牛について書かれた本が、近所の図書館にあったような気がします。借りて読んでみようかと思います。
しかし、ひげを生やし、パパと呼ばれるような、男らしさを追求する陽性なライフ・スタイルは、なんとなく、この文豪の一面に過ぎないような気がします。

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