漂流民と脱藩武士のロシア語辞書2018-04-15 22:36:06

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 江戸時代を通して、日本ではロシア語の辞書が刊行されることがなかったのですが、ロシアのほうではいくつかの露日辞書、日露辞書が作られていました。


 なかでも古いのは、ペテルスブルグ科学アカデミー図書館のアンドレイ・ボグダーノフと、薩摩からの漂流民ゴンザが、共著のものです。

 薩摩から17人の乗組員を乗せたある船が、大阪に向けた航海中に嵐に遭い、洋上を漂流したあげくロシア領カムチャッカ半島に辿り着いたのが、享保13年(1728年)のことです。
 そこでコサック隊の襲撃を受け、15人が殺され、生き残ったわずかふたりのうちのひとりが、まだ10歳ぐらいの少年ゴンザでした。

 ゴンザたちはモスクワを経由し、1733年にロシアの首都ペテルブルグへ送られ、時の女帝アンナ・ヨアノヴナにも謁見しました。
 ゴンザはロシア語の上達も早く、女帝の命により開設された日本語学校の教師になり、また、当時ロシア最高の学識者のひとりであるアンドレイ・ボグダーノフの指導の下、辞書の執筆に勤しみました。
 残念ながら、1739年(元文4年)12月、ペテルブルグが史上まれにみる寒波に襲われるなか、ゴンザは21歳の若さで亡くなりました。

 ゴンザたちが編纂した辞書では、例えば「私の」が「オイガト」となっているように、薩摩の言葉が色濃く見えて、面白いです。


 時代が下り、アンドレイ・タタリノフの「タタリノフ露和語彙」もしくは「レキシコン」だと称される露日辞書が印刷されたのは、天明2年(1782年)です。

 タイトルのページには、「にぽんのひと さのすけのむすこ、さんぱち ござります」と記されていますが、アンドレイ・タタリノフの父親サノスケは延享元年(1774年)に遭難し、千島列島に漂着した陸奥佐井村の多賀丸乗組員でした。
 北村一親の論文によると、サノスケがロシア正教の洗礼を受け、ロシア名はイワン・イワノウィチ・タタリノフと言います。アンドレイ・タタリノフは1752年、ロシアのヤクーツクに生まれたのですが、サンパチ(三八)という日本名を持っているようです。


 一方、日露辞典では、ゴシケウィッチと橘耕斎の共著の「和魯通言比考」が安政4年(1857年)に、ロシアのアジア局から出版されました。
 書中の漢字は達筆で、耕斎の筆跡だと思われます。

 橘耕斎は遠州掛川藩士の立花四郎右衛門の次男として生まれ、祐筆を勤めた上級武士であったが、身を持ち崩して脱藩し、一時は博徒の頭目となり、一説によると殺人まで犯し、何度か投獄されたそうです。
 その後改心して仏門に入り、池上本門寺の幹事に昇進したところ、女性問題を起こし、寺を離れて雲水となり、放浪の旅を重ねたそうです。伊豆は戸田港に流れ着いたところで、ロシア人のゴシケウィッチと親しくなったのが、再び運命の転機をもたらしました。

 時は安政元年(1854年)、ロシアの使節エフィム・プチャーチンが下田港に来たとき、安政東海地震による津波で乗船のディアナ号が大破しました。
 翌年5月、プチャーチンら幕僚は 3ヶ月間の突貫工事で作った代船のヘダ号に乗って下田を出ましたが、60人乗りのヘダ号に乗船できないその他の乗組員は、下田港に来ていた別のアメリカ船に便乗して帰国することになっていました。当時35歳の橘耕斎も荷物に隠れ、ゴシケウィッチも乗るこのアメリカ船で密出国に成功しました。
 吉田松陰が同じく下田から密出国を企んで捕らえられてから、14ヶ月後のことです。

 ところが、このアメリカ船はイギリスの軍艦に捕まり、当時クリミア戦争でイギリスと交戦状態にあったロシアの乗組員は捕虜となり、耕斎も含め、全員ロンドンへ送られました。一年余りの捕虜生活の後、ようやくゴシケウィッチらとともにペテルスブルグに入りました。
 耕斎はアジア局の翻訳官に採用され、ロンドンでの捕虜時代からゴシケウィッチと共同で編纂しはじめた「和魯通言比考」を上梓しました。
 その後、ロシア正教の洗礼を受け、ロシア外務省の役人として、日本政府の使節を三度にわたり迎えていたようです。

 明治6年(1873年)、ロシアを訪れた岩倉具視に説得されて日本に帰国したのち、耕斎は明治政府から芝の増上寺の隅に住居を与えられました。帰国後はふたたび仏門に入り、増田甲斎と改名し、世に出ることなく、ロシア政府より送られた300ルーブルの年金で悠々と暮らしていました。

 藩士、博徒、雲水、捕虜、辞書の編纂、異国での役人、そして再びの出家、耕斎は数奇に満ちた一生を送ったと言えましょう。
 ロシア滞在時の名前をウラジミール・イオシフォウィチ・ヤマトフと言いますが、ヤマトフとは「大和夫」をあてたものだそうです。

大酋長の孫の英語授業2018-02-12 16:34:02

 1932年に廃業となりましたが、かつてポートランドとユージーンの間約200キロの路線で営業していたオレゴン電鉄に、カムカムリ(Comcomly)という名前の駅があったそうです。
 カムカムリとは、キングともチーフとも呼ばれ、臣下5000人だと伝えられている、ネイティブアメリカン・チヌーク族の大酋長でした。

 新大陸の開拓者たちは、事業をうまく進めるために現地有力者と婚姻関係を結ぶのは、あの時代にしばしば見られることです。
 カムカムリの娘のひとりElvamox (別名Marianneとも言う)は、Pacific Fur Companyの毛皮商ダンカン・マクドゥーガル(Duncan McDougall)に嫁ぎ、もうひとりの娘コアルゾア(Koale'xoa、別名プリンセス・サンデー)も、Hudson's Bay Companyのアーチボルド・マクドナルド(Archibald McDonald)に嫁ぎました。
 アーチボルド・マクドナルドはエジンバラ大学を卒業してアメリカに渡ったスコットランド人であり、コアルゾアとの間にラナルド・マクドナルド(Ranald MacDonald)が生まれました。
 ラナルド・マクドナルドは生まれて数ヶ月後に母と死別してしまいましたが、アメリカンインディアンの先祖は日本からアメリカへ渡った、という伝説を信じ、日本に縁を感じ、憧れていました。


 惣郷正明の「サムライと横文字」(ブリタニカ出版)を読んでいますが、その記載によると、ラナルド・マクドナルドが銀行員の地位を捨てて、日本へ行く手がかりとして、サンドウィッチ島行きの捕鯨船プリマス号の船員になったのは1845年の暮れでした。
 1848年、船がカラフト近海から南下し、礼文島沖に達したとき、事前に交わした約束の通り、ボードを下ろして単身で離船しました。鎖国時代の日本では密入国は死刑になると聞いたが、漂流者なら悪くても本国送還になるだろうと考え、ボートをわざと転覆させて漂流者を装って、利尻島に上陸したそうです。

 当時の掟通り、ラナルド・マクドナルドは松前に送られ、さらに長崎まで護送されました。
 長崎では崇福寺の末寺である大悲庵に収監され、室外へ出ることが許されなかったが、待遇は悪くなく、特別に西洋食が支給されたようです。
 奉行の取調べには和蘭通詞の森山栄之助が立ち会いました。
 捕鯨船から離れたのは船長との間に「diffculty」があったと言うと、通詞はこの単語が聞き取れず、英蘭辞書を差し出して指された単語を見て、「もんちゃく」があったと訳せたそうです。

 マクドナルドが日本文化に関心を持ち、学問もあることを知った長崎奉行は、栄之助のほか、堀達之助、西与一郎など通詞14名は英語を兼修とし、彼につけて英語を学ばせることにしました。英語を母国語とする者から直接指導を受けるのは、このときが初めてだったそうです。

 翌1849年、長崎に入港していたアメリカ軍艦プレブル号に引き渡されアメリカに戻るまで、7ヶ月間という短い期間でしたが、ラナルド・マクドナルドの影響は大きいものでした。ラナルド・マクドナルドの顕彰碑は、大悲庵跡に建てられています。
 一方、マクドナルドにとっても、日本滞在は思い出深いものだったようで、1894年の死の間際の最後の言葉は、日本語のサヨナラを用い、「Sionara, my dear, Sionara」でありました。


 生前、ラナルド・マクドナルドは、日本での学生たちについての回想を記していました:
 「みんな、文法は得意であるが、L の発音が不完全で R に発音する。子音のあとに I または O の音をつけくわえる習慣がある。しかし敏感で、よく受け入れるので、教えるのが楽しい...」

 現在の日本の英語学習者にも、何か通じるところがあるような気がします。

婦女銀袋賽 ~女のへそくり競走2017-11-03 16:23:33

 香港競馬会のホームページによる、明後日11月5日の香港競馬は「莎莎婦女銀袋日」と名付けられています。(http://campaigns.hkjc.com/ladies-purse-day/ch/?b_cid=EWHPRTC_1_1718SALPD_GEN_171010」)。
 「莎莎」はスポンサーの会社名で、この日のメインレースはG3の「婦女銀袋賽」であると紹介されています。婦女銀袋賽の英文名称は"Ladies' Purse"ですが、香港競馬でも最も歴史の長いレースのひとつです。
 Wikipediaによると、最初に行われたのはなんと1846年であり、しばらく中断され、第二次大戦後に再開されたのは1947年だったそうです。

 実は、このLadies' Purseこそが、競馬の歴史上で賞金体系が出来上がるきっかけを作ったレースのひとつだと言われています。


 1862年の5月1日と5月2日、日本では横浜で初めての組織的な近代競馬が開催されましたが、そのプログラムが掲載されている1862年4月26日付の「ジャパン・ヘラルド」を、早坂昇治が著作の「文明開化うま物語 ~根岸競馬と居留外国人」(有隣新書)で紹介しています。
 開催2日目(5月2日)の第4競走は、「婦人財嚢競走 半マイル 賞金四〇ドルのスイープ・ステータス」と出ています。

 財嚢とはサイフであり、婦人財嚢競走はすなわち"Ladies' Purse"ほかなりません。
 わかりやすく言えば、競馬を見物に来た婦人たちに袋を回して寄付を募り、それを賞金の一部にあてる、という趣向のレースです。この日第2レースの「チャレンジ・カップ」は賞金が100ドル、第5レースの「横浜賞」は賞金が75ドル。婦人財嚢競走の正規賞金(40ドル)はほかのレースより低いですが、予め奥様方のご寄付を期待しているゆえ、だと思われます。

 婦人財嚢競走は、横浜競馬が根岸に移った後も毎開催のように行われ、戦前では上野不忍池の共同競馬や目黒競馬で実施された記録が残っています。
 香港の「婦女銀袋賽」では、その昔、勝ち馬の騎手は婦人たちとともに昼食をとれる特典付き、だと言われています。日本ではそのような慣習を聞いたことがないが、それでも勝てば、名士の貴婦人から祝辞とともに賞金が入った袋が渡されます。他レースより出走馬が多いことからも、その人気の高さが伺われます。

 1970年の「神奈川の写真誌 明治初期」(有隣堂) では、「女のへそくり競走」とあだ名を付けています。
 まさに、なんとか婦人たちのへそくりを巻き上げようと、居留地の紳士たちが知恵を絞ってひね出したアイデアだったかも知れません。

豹(ジャガー)の眼2017-10-22 23:23:14

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 高垣眸の作品について適当な記事を書き、特に「豹の眼」に関するくだり、二胡ちゃん様よりコメントを頂いたことがあります(http://tbbird.asablo.jp/blog/2016/01/04/7970963)。

 昭和37年に発行された「名作リバイバル全集」での「豹の眼」を、神保町の古書店の店頭でたまたま見かけ、手に入れました。
 未見ですが、「少年倶楽部」掲載時は名人・伊藤彦造の挿絵だったそうです。このリバイバル版の表紙装画、挿絵は嶺田弘のもので、元々の連載時とは違うが、こちらの絵もなかなか味があって、作品の色にも合っていると思います。

幻の女流詩人ビリティスの歌2017-10-18 22:23:01

 19世紀末のことです。
 中東、かつてのフェニキアの地、アマトントの廃墟に程近い場所で、ひとつの地下の墓が発見されました。
 石棺に刻まれた碑文を、ドイツの考古学者W・ハイムが解読した結果、墓の主は、紀元前六世紀、ギリシャの辺地パンフィリーの地に生まれた、ビリティスという女性のものだと解明されました。
 墓の内壁には150にも及ぶ数の古代のイオニア韻率に沿った詩篇が記されており、凡そ3つのパートに分かれますが、そのすべてがビリティスの数奇な生涯を物語っている詩です。


 1895年、まだ二十台の若いフランス詩人ピエール・ルイスによる優れたフランス語訳を介し、これらの詩篇は「ビリティスの歌 (Les chansons de Bilitis)」として広く知られるようになりました。
 クロード・ドビュッシーは1897年から1898年にかけて、「ビリティスの歌」から3篇を選んで、歌曲を作曲した。

1. La Flûte de Pan (パンの笛)
2. La Chevelure (髪)
3. Le Tombeau des Naïades (ナイアードの墓)



 文献学者は、ピロデウムスの詩句に二度ビリティスの歌からのパクリがあることを発見しました。
 ピエール・ルイスからの献本を受けた在アテネのさる高名な教授は、かつてビリティスの名への言及がある文献を、どこかで読んだ記憶がある、と寄贈者のへの返書で示唆していました。


 そんなはずはありません。
 なぜなら、すべては若き詩人の手による捏造です。W・ハイムなる考古学者も、フェニキアの古墳も、石棺もミイラも碑文も、ピエール・ルイスの創作に過ぎません。

 若くして輝かしい名声を得たピエール・ルイスは、しかし晩年は文壇からも忘れられ、盲目となり、孤独と貧困のうちに世を去ったそうです。

【素人写真】久々の台湾2017-08-22 22:57:03

 久々の台湾。
 親戚や友人に会い、そして初めての阿里山、何度目かの日月潭に行きました。















水戸黄門の印籠2017-03-11 13:28:29

 資格やライセンスは水戸黄門の印籠のようなもの、だと論じた文章を目にしました。
 なるほど、実力の程を他人に知らせて正しく評価してもらうのは容易でない場合が多く、かくして、世の中に数え切れぬほどの資格、ライセンスが生まれました。

 さて、何年間も水戸黄門のドラマを見ていない僕が語るのも畏れ多いと思いますが、少なくとも私の記憶では、毎度話が佳境に差し掛かる頃合を見計らって、控えおろう!と格さんがご老公の印籠を見せると、悪代官悪者どもは一旦恐れをなして地に伏すものの、悪行罪名を指摘されると、なりふりも構わず逆切れして襲い掛かってくるのが、デフォルトパターンです。
 そう考えると、水戸黄門の印籠とは、一見凄そうに見えて案外役に立たない物、だと解釈したくもなります。

 世の中、水戸黄門の印籠よりも格さん助さんの刀、実戦で戦い抜く実力がないとダメなのかも知れません。

横須賀軍艦めぐり2016-12-19 23:02:17

 先月のことでしたが、ようやく写真を整理しましたので。

 まずはこちら、米軍の潜水艦です。


 こちら米軍のイージス艦です。


 そして、巨大な原子力空母ロナルドレーガン号です。
 艦上で働く人は5千人以上だそうです。

 作業中。

 そして、こちらのイージス艦はちょうど帰港途中。

 以降は自衛隊、こちら潜水艦救難母艦です。

 海洋観測艦だそうです。

 退役済みの掃雷艦。
 艦体番号は消されたが、微かに見える305番はつしま、です。

 特務艦はしだて。

 姉妹艦のやまぎり、ゆうぎり。

 自衛隊最大の護衛艦いずもの姿も見えます。


 以上、軍艦めぐりツアーから、でした。