サムライの作法2016-03-20 11:21:47

 もし江戸時代の侍が、たまたま傍輩同士が喧嘩を始め、うち一人が刀を抜いたのに出会ったら、どうすべきなのでしょうか?

 「こんな本があった!江戸珍奇本の世界」(社団法人家の光協会)は、古典秘籍の宝庫である西尾市岩瀬文庫(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E5%B8%82%E5%B2%A9%E7%80%AC%E6%96%87%E5%BA%AB)の目録作成に携わった塩村耕氏の著作であり、文庫に納められている珍奇本の数々を紹介しています。
 そのうちの一冊、侍の生き方マニュアルとも言うべき「八盃豆腐」を紹介するページは、冒頭にあるような問いかけから始めています。

 まず、脇に控えて見守るべきです。
 もし、どちらかが親類か親しい友人で、その人が危うく見えたなら、助太刀をして相手を打たせてやります。もし、両者とも普通の関係なら、一方が打たれたら、相手に申し含め、近辺の寺へ同道して付き添い、人をやって藩に届け出るべき、だと書かれています。
 仲裁に入り、仲直りさせたりするのはよろしくなく、刀を抜きかかった方が「あほう払」の罪(両刀を取り上げられ、追放する屈辱的な刑罰)に処せられるゆえ、です。

 傍輩が家来を手討ち損じ、逃れた家来が自分の屋敷に駆け込んだ場合、道中で家来に持たせたヤリが他家の侍に奪い取られた場合、残罪者を連れて刑場に向かう途中、大寺の高僧が囚人に袈裟を掛け、身柄渡しを懇願して引き下がらない場合など、ほかにも難しい局面についていろいろ書かれているらしいです。


 義と名誉のためには命も投げ出せるのが武士道ですが、こういう侍たち特有の行動規範が、もしあたり前にすべて侍が心得ているなら、教訓書すら無用だったはずです。やはり二世紀半の長い平和な時代に、武士たちのモラルが緩んでいたのでしょう。

 実際、先日読んだ「サムライとヤクザ―」(氏家幹人、ちくま新書)によると、明治維新前のまさに江戸幕府が伸るか反るかの動乱期、幕府軍でよく戦った戦士たちは、元からの侍ではなく、駕篭かきや火消し、博徒など、町の荒くれ者だったそうです。
 戦乱の世から泰平の世への転換と軌を一にして、戦士の作法だった男道は徐々に色褪せし、役人の心得であるほうの「武士道」へと様変わりした、という話でした。

【素人写真】二月のある日2016-03-06 14:51:04

 山北町の洒水の滝、人影がなかったのです。











【メモ】鼠小僧の自白2016-02-22 23:01:52

 天保三年(1832年)の5月、松平宮内少輔の屋敷に盗みに入ったところを捕らえられ、町奉行所に引き渡された次郎吉は、やたらと記憶力がすぐれていました。
 「武鑑」で薄れた部分を補いながら、十年前に遡り、忍び込んだ屋敷や盗んだ金額をわりと詳しくすべて白状しました。

 ご存知、義賊の伝承や大仏次郎の小説で知られている、鼠小僧です。


 この詳細な自白は、被害に遭った大名旗本屋敷側にとっては、はなはだ迷惑だったようです。なかには、金子の紛失により女中が疑われて、「それとなく御暇」になったケースもあったそうです。しかし、事実を隠し続けても、町奉行所は承知してくれそうになかったので、最終的に各屋敷は概ね再調査で判明した事実を報告したそうです。
 江戸の主だった大名屋敷が、長年渡ってひとりの小柄の男に容易く度々侵入され、多いときは四百数十両もの大金を盗まれたというから、屋敷側の威厳も武士の面目もまるつぶれです。

 武士のほうは、神出鬼没の鼠小僧に対して、複雑な感情を抱いている人が多いようです。

 例えば、「甲子夜話」を著した松浦静山は早くから鼠小僧に注目したひとりで、伝え聞く次郎吉の身軽さだけでなく、彼の行状にも興味津々でした。
 かつて盗みに入った商家が破産したと聞いた次郎吉が、再びその家に忍び込み、盗んだ金七十両をこっそり返した、という美談については、「これ人徳慈悲を知て、敬忠を知らざる者也」と評しました。確かに慈悲の心はあるが、武士に対する敬意を欠くもので、「殆んど禽獣と同じ」と付け加えました。
 厳しい尋問の最中にも「いかにも泰然として」恐れたそぶりを見せず、「吟味拷問等のときも、聊か臆せし体無かりしと」など、次郎吉の死を恐れぬ姿に感銘を受けて「盗中の勇者と云べし」と称えました。すぐに「勇もかかる所に用ては役にたたぬこと也」と付け加えたのは、思わず盗人を賞嘆してしまったのを恥じたのかも知れません。


 3ヵ月後に市中引き回しの上での獄門の判決が下されました。本来なら殺人や放火の凶悪犯に適用される刑であり、重い判決は面子を潰された武家の恨みによるもの、という見方もあります。

【メモ】銭形平次の財団2016-02-21 23:18:16

 「不景気と言や、親分、ちかごと銭形の親分が銭を投げねえという評判だが、親分の懐具体もそんな不景気なんですかい」
 「馬鹿にしちゃいけねえ、金は小判というものをうんと持っているよ。それを投げるような強い相手が出て来ないだけのことさ」
 書き出しの無駄口話が落語の枕のようなもので、「銭形平次捕物控」の魅力のひとつです。

 実際、銭形平次とお静との所帯は「年がら年中、ピイピイの暮し向き、店賃が三つ溜まっているが、大家は人が良いから、あまり文句を言わない」というから、小判など一生手にしなかったかも知れません。

 そんな清廉潔白で貧しい平次が敵に投げつけたのは、むろん小判ではなく、寛永通寳です。
 ウィキペディアの「銭形平次捕物控」の項で、「平次が劇上で投げたとされる寛永通寳真鍮當四文銭(十一波)」が写真付きで紹介されています。
 しかし、小説のなかでは「ちょっと重い鍋銭」と書かれています。ウィキペディアの「寛永通寳」を参照すると、「鉄銭は鍋銭(なべせん)とも呼ばれ」と出ており、真鍮四文銭よりも安い鉄一文銭のほうなのかも知れません。


 銭形平次の作者の野村胡堂も、第一高等学校を経て東京帝国大学法科大学に入学するが、学資に困ったゆえ中退になっていた人です。

 胡堂の夫人のハナは日本女子大卒で教師となり、新聞記者時代の胡堂を経済面からも支えていました。
 ハナ夫人の親しい同僚に、夫がすでに亡くなった井深さんという女性がいて、その息子の大(まさる)は野村家にしょっちゅう遊びに行っていたそうです。
 長じて、東京・日本橋の旧白木屋店内に個人企業「東京通信研究所」を立ち上げたが、運転資金に窮すると、胡堂は心よく融通しました。その頃、野村胡堂の銭形平次が売れていました。
 のち、井深大の会社は「ソニー」と改名しました。

 胡堂は晩年、私財のソニー株約1億円を基金に財団法人野村学芸財団を設立しました。
 経済面で学業継続が困難になった学生等への奨学金の交付を目的のひとつとしていますが、これはやむなく学業を断念した胡堂の経験が背景になっているのでしょう。

【素人写真】梅の花2016-02-11 20:48:08

 小田原の曽我梅林です。











スタンダードナンバーに酔いしれる夜2016-02-06 21:01:49

 YouTubeでジャズを聴いています。

 名人Wynton Marsalisに、ちょっと珍しい楽器編の成が入っている「My Favorite Things」です。


 「Maiden Voyage」をソロ・ピアノで聞くのもわるくないです。


 そして、この小林香織の「Nothing gonna change my love for you」は、何度聞いても素晴らしいです。


高垣眸2016-01-24 16:38:34

 高垣眸が昭和6年に書かれた少年小説「怪人Q」を読みました。

 第一次世界大戦で敗戦国となり、苛酷な賠償条約に虐げられた祖国ドイツを救うため、高名な科学者であったクラウス博士が恐怖のQ結社を組織し、世界を敵に回して戦う話を軸に据えます。
 東少年、石黒七段、ゲイ探偵らがQに立ち向かい、奮闘しますが、潜水艦(潜行艇)、ヘリコプター(直昇ジャイロ)、ロボット(人造人間)など、当時の科学を先取りした発明と忠誠な部下を擁するQ結社は、米国の大西洋艦隊にもいささかたじろがず、米国大統領から約束を取り付け、Q結社を自ら解散しました。

 この作品の延長線上にあるのが、後の「凍る地球」、「恐怖の地球」などの地球シリーズなのかも知れません。
 白色人種がもたらした文明によって、精神的畸形に近い人間が多数はびこっていることを、高垣氏はしきり憂慮しているようです。


 大阪国際児童文学館による「日本の子どもの本100選(戦前編)」にも高垣眸の「豹の眼」(1928年)が選ばれています。
 日本人の大佐を父に、旧インカ帝国の末裔を母に持つ黒田杜夫が主人公となり、舞台はサンフランシスコやアリゾナ大高原になっています。清王朝の遺族でサンフランシスコのアヘン窟に身を潜めている恭親王、王の娘で日本人の手品師を母親に持つ錦華、王の部下である張爺や、混血のインディアンらと一緒に、主人公たちはインカ帝国の秘宝をめぐって、白色人種と戦う冒険活劇です。その敵のボスが「豹」であり、銀行の頭取と政府の探偵という二つの顔を持った人物、という設定であるようです。

 1959年のテレビドラマ「豹の眼」がDVDで出ていますが、すでに設定が変わり、主人公黒田杜夫はジンギスカンの血をひく日本人となっています。清王朝再興を目指す秘密結社「青竜党」の娘・錦華たちとともに、ジンギスカンの隠し財宝争奪戦に挑む話のようですが、そこには高垣眸が書いていた、反白人主義的な一面がほぼ省かれたのであります。


  「宇宙戦艦ヤマト」のメディアミックス作品のひとつに、高垣眸の「熱血小説/宇宙戦艦ヤマト」(1979年)が、あります。
 どうやら「宇宙戦艦ヤマト」のスタッフは、高垣眸作品のきわめて熱心な読者だったようです。そのため、当時はすでに勝浦に住み、半ば引退していた高垣氏に小説の原稿を依頼し、例え内容がアニメ版と食い違いがあったとしても、出版させたようです。

 しかし、高垣版ヤマトに対し、当時(1980年前後)のアニメ視聴者たちは古臭くと感じ、総じて評価が低いようです。時が流れ、1930年代生まれのヤマトの製作者側と、ヤマトを見ているファンたちの間には、厳然たるジェネレーションギャップがあったのかも知れません。

少年小説の系譜2016-01-04 09:47:43

 大阪国際児童文学館による「日本の子どもの本100選(戦前編)」のタイトル一覧(http://www.iiclo.or.jp/100books/1868/htm/TOP-Year.htm)を見ています。

 知らない本も多いですが、福沢諭吉の「世界国尽」、西條八十の童謡、室生犀星の詩集、島崎藤村の童話集などと並んで、押川春浪の「海底軍艦」、平田晋策の「新戦艦高千穂」、吉川英治の「神州天馬侠」、大仏次郎の鞍馬天狗ものや江戸川乱歩などを選んでいるのが、楽しいです。
 つまり、大人が子供たちに読ませようとしたいわゆる「児童文学」だけでなく、元々少年向けエンタテイメントを志向した作品も多数入っています。


 いま「ライトノベルから見た少女/少年小説史」(大橋崇行、笠間書院)を読んでいますが、作者は、文学作品としての児童文学こそがアカデミックな研究に耐え得るものとする論調に異を唱え、現代のライト・ノベルに繋がるエンタテイメントとしての「少年小説」を取り上げています。

 例えば、大阪国際児童文学館のリストにも入っている、巌谷小波の「こがね丸」も、日本における最初の「児童文学」作品として位置づけられるより、「少年小説」の系譜に入れるべきものだと説いています。
 この系譜は、戦後の「痛快文庫」に引き継がれ、マンガによってが取って代わられたりもしたが、キャラクター立ちする手法等を確立しながら、近年の「ロードス島戦記」、「涼宮ハルヒの憂鬱」、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーのマネジメントを読んだら」などのヒットに繋がっている、かも知れません。