原始、女は太陽だった ~ 平塚らいてう、伊藤野枝 ― 2014-09-03 01:09:44
「原始、女は太陽だった」(↑)は、1995年6月に発売されたCDシングルであり、先日発売されたの明菜さんの「オールタイム・ベスト ORIGINAL」にも収録されています。
「原始に生まれた女のように / ただありのままに / 愛をもとめてゆきたい」という歌詞があり、ポジティブに生きる女性を謳う歌だとされています。
* * * * *
1911年9月、雑誌「青鞜」を創刊し、巻頭で「元始、女性は太陽であった」を高らかに宣言したのが、女性解放運動家で、戦後の和平運動にも尽力した、平塚らいてうです。
らいてうの父親は会計検査院に勤務し、ドイツ語の通訳・翻訳をし、伊藤博文を助けて憲法草案にも携わった官吏です。母親は御典医の娘で、文明開化の先端を行くような人のようで、自己再教育のために桜井女塾に通って英語の勉強をしたそうです。
らいてうが通った当時の東京女子高等師範学校附属高等女学校(御茶の水女子学校)は、大名豪族や豪商三井の娘もいて、良妻賢母教育主義で知られています。らいてうはそうした校風に反発し、「海賊組」という仲間を作り、14歳のとき、修身の授業をボイコットしたこともあります。
21歳のらいてうは、海禪寺住職代理の和尚と接吻事件を起こしました。
らいてうはこの青年僧に「不意に、なんのためらいもなく」キスし、結果、和尚は煩悩のあまり修業もままならぬ状態となったそうです。らいてうは、この件は小説「若きウェルテルの悩み」などからの影響があったためで、恋ではないと弁明しています。
そして翌年、らいてうは成美女子英語学校の教師だった森田草平と心中未遂事件を起こしてしまいました。
森田は夏目漱石門下の秀才で、二人は塩原の尾頭峠に情死行を企み、追っ手に捕らえられて未遂に終わっています。この事件は実に奇々怪々で、新聞報道されて、世間を仰天させました。森田はその顛末を小説「煤煙」として朝日新聞に発表し、結局、一躍人気作家になってしまいました。
スキャンダルはこれに留まらず、「青鞜」の編集部に入ってきた男装の大女、尾竹紅吉にも惚れられました。らいてうが、「青鞜」の表紙絵を描いた奥村博史と仲むつまじくなったのを知り、紅吉は手首を切り、自殺未遂するに至りました。
「文人暴食」(嵐山光三郎、マガジンハウス) という本をいま読んでいますが、「青年僧に対しても、森田に対しても、らいてうは『お嬢様のいたずら心』がいっぱいの自己執着があり、結果として男心を もてあそんだ。」と、作者が評しています。
らいてうは29歳のとき、心身の疲れから、「青鞜」の発行権を、社員で当時まだ21歳の伊藤野枝に譲りました。
もとも、野枝の編集になると「青鞜」は堕胎論文で発禁処理を受け、一年で廃刊となりました。
手元の「本郷菊富士ホテル」(近藤富枝、中公文庫) によると、大杉栄が恋人の伊藤野枝とともに菊富士ホテルに移って来たのは大正5年(1916年)10月5日でした。
大杉は外国語学校仏語科に入学したころから、幸徳秋水の平民社に近づき、以降入獄を繰り返していた運動家です。
伊藤野枝は辻潤の妻、辻まこと (http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/06/07/1563252) の母親ですが、そのとき、家も二人の子供も一切捨てて大杉の元に飛び込んできました。
辻潤が特高に付きまとわされたことをちょっと書きました (http://tbbird.asablo.jp/blog/2012/05/22/6452932) が、大杉栄のほうも菊富士ホテルへ移ってくると、早速本富士署から刑事がやってきて、「大杉たちの隣の部屋を貸して欲しい」と申し込んだぐらいです。
と言っても、当時の大杉栄は主催する「平民新聞」が毎号発禁の連続で、一文なしだったから、ホテルの宿代は一度も支払わないままで数ヶ月滞在したらしく、出先の食堂では尾行の刑事に支払いまでさせました。
そんな大杉栄の負担にならないように考え、伊藤野枝は次男の流二を里子に出したりしました。
辻まことが、「多摩川探検隊」(小学館ライブラリー)で、「夏休みは毎年、外房州夷隅郡大原町字根方という漁村にある弟の家にいく。(中略) いつも夏休みにしか会わない弟などは変なものだ。」と書いていますが、以上の事情によるものです。
実は、野枝が辻潤と同棲するようになった際も、彼女は学費を出して上野高女を卒業させてくれた許婚を嫌って故郷を出奔したそうです。「火の玉のような情熱家であった」だと近藤富枝が評しています。
太陽ですから、火の玉の親玉みたいなものなのでしょう。
但し、「文人暴食」によれば、伊藤野枝が大杉の元に走ったのは「辻さんが彼女の従姉の千代子さんに愛を移したから」だと、平塚らいてうが記しているそうです。
また、大杉栄のほうも「フリーラブ」を唱え、堀保子、神近市子、伊藤野枝の三人の女性とそれぞれ等距離の恋愛関係を望んでいて、 結局、神近市子に刺されたという、いわゆる日陰茶屋事件を起こしたぐらいの人です。
つまり、「ありのままで愛を求めて行っている」のは、必ずしも女性のほうばかりでないことを、付け加えておきます。
【競馬史四方山話】ミノル、ミノル、トキノミノルほか ― 2014-09-13 12:00:30
1968年の第20回朝日杯3歳ステークスを勝ったのが、名種牡馬ヒンドスタンの仔ミノルです。
ミノルは、3歳時(現在の表記では2歳)の成績は7勝3敗と負けも多いが、朝日杯を勝ったことが決め手となり、最優秀3歳牡馬(啓衆社賞)に選ばれました。
4歳になり、東京4歳ステークスを6馬身差で圧勝してクラシックの主軸とも一時目されましたが、皐月賞はワイルドモアの4着、ダービーはダイシンボルガードの2着、秋の菊花賞は17着に惨敗して、クラシックイヤーは無冠に終わりました。
日本のミノルはクラシックを勝てなかったが、英国のミノル(Minoru)は1909年のエプソム・ダービーを勝っています。
ミノルのダービー制覇は、本命のサーマーティン(Sir Martin)のアクシデントに助けられたものだとも言われています。後のセントレジャー優勝馬バヤルド(Bayardo)に騎乗していたダニー・ムーア旗手は、サーマーティンの後ろに付け、事故を避けようと馬を抑えて、十数馬身ものロスがあったと証言しています。
各馬は倒れたサーマーティンとその騎手にぶつからないことに懸命になっているのを横目に、ミノルはほとんどロスがなく内ラチとの間を突いてようです。
ミノルの馬名の由来は、日本人の名前です。
1902年に100メートル走で10秒24という記録を出した東京帝国大学の学生・藤井實に因んだものだと言われてもいますが、「Biographical Encyciopaedia of Britsh Falt Racing」など手元の英文書は、いずれも、ウィリアム・ホール・ウォーカー大佐が、牧場敷地内に日本庭園を造園するために招いた日本人タッサ・イイダこと飯田三郎の子息であるミノル(実)に由来する、という説を採っています。
ダービー馬・ミノルのオーナーは、当時のイギリス国王エドワード7世となっています。
王室の馬がダービーを勝つことが、王室ならびに王政に対する大衆の人気を高める方法だと主張し、ミノルを含む6頭の競走馬をイギリス国王エドワード7世に貸したのが、ウィリアム・ホール・ウォーカー大佐です。
1916年になると、ウォーカー大佐は、所有しているサラブレッドをすべてイギリス政府に寄贈し、カラーにある牧場、調教厩舎等も査定して政府が買い上げました。国への高価な寄贈が認められ、彼にはウェーヴァトリー卿の爵号が与えられました。
ホール・ウォーカーが運営していた間にタリー牧場から生まれた最良馬は、おそらくプリンスパラタインです。
プリンスパラタインの父パーシモンは名種牡馬で、母はアイシングラス(Isinglass)産駒で、高い評価を受けている牝系であり、プリンスパラタインは成功できる下地を持っていました。
ホール・ウォーカーについて、はるかに興味深いのは、その他の、競走成績や血統であまり見るべきものがない牝馬を近親交配して「ブリード・アップ」する手法です。そうした牝馬たちの孫の世代が、実に目覚しい大成功を収めました。
ブランドフォード(Blandford) チャレンジャー(Challenger II)、シックル(Sickle)、ハイペリオン(Hyperion)、ビッグゲーム(Big Game)、プリンスキロ(Princequillo)。これだけの名種牡馬の2代母を生産した功績は、競馬史上に残る燦然たる偉業だと言わねばなりません。
1916年にホール・ウォーカーが馬の生産から手を引いたあと、代わりに管理したサー・ヘンリー・グリアー、ノーブル・ジョンソンが、彼が残した近親配合を持った牝馬にスウインフォードのようなクラシック級の種牡馬と配合して生んだ、幸運な偶然であるのか、それとも計算された必然であるのかは、神様しかわからないでしょう。
ブランドフォードは、生真面目なリチャード・セシル・ドウスン調教師にして、「もしダービーに出走できたら勝てただろう」と言わしめただけ素質はあったようです。しかし実際のブランドフォードは強い調教をすると必ず腱が腫れ上がる問題を抱え、思うようにレースに出せず、二年間の競走馬生涯でわずか4戦(3勝)しただけで引退しました。
しかし、ブランドフォードは種牡馬になってから、子供たちが大活躍して、歴史的名種牡馬と呼ばれるようになりました。
そのうちの一頭が、1935年の英国クラシック三冠馬になったバーラム(Bahram)です。
バーラムは、生涯9戦9勝の歴史的名馬ですが、デビュー前は病弱であって調教も怠けていたので、同じオーナー(アガ・カーン殿下)で同じ厩舎にいた僚馬セフト(Theft)のほうが、むしろ当初の評価がだいぶ高かったようです。
しかし、バーラムはレースになるとまじめに走り、2歳時のナショナル・ブリダーズ・プロデュースSも、クラシック第一弾の2000ギニーも、セフトはバーラムの2着に負けました。
ダービーで、セフトは、前に馬がいたから一旦後ろに下げてから外に持ち出したため、騎乗したハリー・ラグ騎手は同じ馬主のバーラムに勝ちを譲ったのではないかと疑われ、審判から警告処分されたそうです。確かにセフトの後ろにいたバーラムは、そのままの位置でタテナムコーナーを回り、馬群を割り込んで快勝したから、少なくとも結果的にバーラムに乗っていたフレッド・フォックス騎手のほうが、優れた騎乗をしたと言えます。
セフトは競走馬引退後、日本に輸入され、官営の日高種畜場に繋養され、1947年から1951年まで、5年連続でリーディングサイアーとなったほどの大成功を収めました。
しかし、自身の競走成績同様、どちらかというと短距離レースのほうに活躍馬が多く、ダービーを勝つ馬はなかなか出てきませんでした。
ようやく、ミノルの英国ダービー制覇から42年後、1951年の日本ダービーを勝ったのが、セフト産駒による初のダービー馬、トキノミノルです。
「初出走以来10戦10勝、目指すダービーに勝って忽然と死んでいったが、あれはダービーをとるために生まれてきた幻の馬だ」とあるのは、吉屋信子さんが、トキノミノル急死後、毎日新聞に寄せた文章の一部です。
トキノミノルは当初パーフエクトという馬名で出走していました。デビュー戦の800メートルのレースに2着馬に8馬身差でレコード勝ちした後、永田雅一オーナーがトキノミノルに改名しました。
「トキノ」は、永田氏が特に走る持ち馬に付ける冠名であり、デビュー前のトキノミノルはさほど期待されていなかったかも知れません。
永田雅一は当時大映の社長であり、プロ野球のオーナーでもあり、トキノミノルがダービーを勝った3ヶ月後、「羅生門」ががヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞したこともあり、まさに人生の絶頂期でした。
ダービーのレース後、馬場に出て記念写真を撮ろうとした永田氏とトキノミノル目がけて、観客が殺到し、埒が破損しました。オーナー、馬、騎手は人波のなかに巻き込まれ、口取り撮影は馬場内になだれ込んだ観客に囲まれた中で行われた史上初のことです。秋にはセントライト以来史上2頭目のクラシック三冠が確実視され、永田氏は記者たちに対し、三冠を達成できた場合、史上初のアメリカ遠征を行うことを発表しました。
しかし、レース終わって五日目ぐらいから、どうもドキノミノルは元気がなくなり、16日午後になって目が赤くなっているのが見つかり、結膜炎が疑われて治療が行われたそうです。
6月17日、松葉博士がやって来て精密検査したところ、破傷風であることが確定されました。
そしてついに6月20日に敗血症を起こし、永田オーナーなど関係者に看取られながら短い生涯を閉じました。
名馬の急死は、社会的にも大ニュースとして扱われ、読売新聞の21日の朝刊で社会面のトップで扱い、競馬が一般紙に登場することの少ない時代で珍しい扱いでした。
のち、トキノミノルは銅像が作られ、幾度のを改修工事を経ている東京競馬場にいまも設置されています。
競馬ファンの間では待ち合わせ場所としてすっかり定着されています。
ミノルは、3歳時(現在の表記では2歳)の成績は7勝3敗と負けも多いが、朝日杯を勝ったことが決め手となり、最優秀3歳牡馬(啓衆社賞)に選ばれました。
4歳になり、東京4歳ステークスを6馬身差で圧勝してクラシックの主軸とも一時目されましたが、皐月賞はワイルドモアの4着、ダービーはダイシンボルガードの2着、秋の菊花賞は17着に惨敗して、クラシックイヤーは無冠に終わりました。
日本のミノルはクラシックを勝てなかったが、英国のミノル(Minoru)は1909年のエプソム・ダービーを勝っています。
ミノルのダービー制覇は、本命のサーマーティン(Sir Martin)のアクシデントに助けられたものだとも言われています。後のセントレジャー優勝馬バヤルド(Bayardo)に騎乗していたダニー・ムーア旗手は、サーマーティンの後ろに付け、事故を避けようと馬を抑えて、十数馬身ものロスがあったと証言しています。
各馬は倒れたサーマーティンとその騎手にぶつからないことに懸命になっているのを横目に、ミノルはほとんどロスがなく内ラチとの間を突いてようです。
ミノルの馬名の由来は、日本人の名前です。
1902年に100メートル走で10秒24という記録を出した東京帝国大学の学生・藤井實に因んだものだと言われてもいますが、「Biographical Encyciopaedia of Britsh Falt Racing」など手元の英文書は、いずれも、ウィリアム・ホール・ウォーカー大佐が、牧場敷地内に日本庭園を造園するために招いた日本人タッサ・イイダこと飯田三郎の子息であるミノル(実)に由来する、という説を採っています。
ダービー馬・ミノルのオーナーは、当時のイギリス国王エドワード7世となっています。
王室の馬がダービーを勝つことが、王室ならびに王政に対する大衆の人気を高める方法だと主張し、ミノルを含む6頭の競走馬をイギリス国王エドワード7世に貸したのが、ウィリアム・ホール・ウォーカー大佐です。
1916年になると、ウォーカー大佐は、所有しているサラブレッドをすべてイギリス政府に寄贈し、カラーにある牧場、調教厩舎等も査定して政府が買い上げました。国への高価な寄贈が認められ、彼にはウェーヴァトリー卿の爵号が与えられました。
ホール・ウォーカーが運営していた間にタリー牧場から生まれた最良馬は、おそらくプリンスパラタインです。
プリンスパラタインの父パーシモンは名種牡馬で、母はアイシングラス(Isinglass)産駒で、高い評価を受けている牝系であり、プリンスパラタインは成功できる下地を持っていました。
ホール・ウォーカーについて、はるかに興味深いのは、その他の、競走成績や血統であまり見るべきものがない牝馬を近親交配して「ブリード・アップ」する手法です。そうした牝馬たちの孫の世代が、実に目覚しい大成功を収めました。
ブランドフォード(Blandford) チャレンジャー(Challenger II)、シックル(Sickle)、ハイペリオン(Hyperion)、ビッグゲーム(Big Game)、プリンスキロ(Princequillo)。これだけの名種牡馬の2代母を生産した功績は、競馬史上に残る燦然たる偉業だと言わねばなりません。
1916年にホール・ウォーカーが馬の生産から手を引いたあと、代わりに管理したサー・ヘンリー・グリアー、ノーブル・ジョンソンが、彼が残した近親配合を持った牝馬にスウインフォードのようなクラシック級の種牡馬と配合して生んだ、幸運な偶然であるのか、それとも計算された必然であるのかは、神様しかわからないでしょう。
ブランドフォードは、生真面目なリチャード・セシル・ドウスン調教師にして、「もしダービーに出走できたら勝てただろう」と言わしめただけ素質はあったようです。しかし実際のブランドフォードは強い調教をすると必ず腱が腫れ上がる問題を抱え、思うようにレースに出せず、二年間の競走馬生涯でわずか4戦(3勝)しただけで引退しました。
しかし、ブランドフォードは種牡馬になってから、子供たちが大活躍して、歴史的名種牡馬と呼ばれるようになりました。
そのうちの一頭が、1935年の英国クラシック三冠馬になったバーラム(Bahram)です。
バーラムは、生涯9戦9勝の歴史的名馬ですが、デビュー前は病弱であって調教も怠けていたので、同じオーナー(アガ・カーン殿下)で同じ厩舎にいた僚馬セフト(Theft)のほうが、むしろ当初の評価がだいぶ高かったようです。
しかし、バーラムはレースになるとまじめに走り、2歳時のナショナル・ブリダーズ・プロデュースSも、クラシック第一弾の2000ギニーも、セフトはバーラムの2着に負けました。
ダービーで、セフトは、前に馬がいたから一旦後ろに下げてから外に持ち出したため、騎乗したハリー・ラグ騎手は同じ馬主のバーラムに勝ちを譲ったのではないかと疑われ、審判から警告処分されたそうです。確かにセフトの後ろにいたバーラムは、そのままの位置でタテナムコーナーを回り、馬群を割り込んで快勝したから、少なくとも結果的にバーラムに乗っていたフレッド・フォックス騎手のほうが、優れた騎乗をしたと言えます。
セフトは競走馬引退後、日本に輸入され、官営の日高種畜場に繋養され、1947年から1951年まで、5年連続でリーディングサイアーとなったほどの大成功を収めました。
しかし、自身の競走成績同様、どちらかというと短距離レースのほうに活躍馬が多く、ダービーを勝つ馬はなかなか出てきませんでした。
ようやく、ミノルの英国ダービー制覇から42年後、1951年の日本ダービーを勝ったのが、セフト産駒による初のダービー馬、トキノミノルです。
「初出走以来10戦10勝、目指すダービーに勝って忽然と死んでいったが、あれはダービーをとるために生まれてきた幻の馬だ」とあるのは、吉屋信子さんが、トキノミノル急死後、毎日新聞に寄せた文章の一部です。
トキノミノルは当初パーフエクトという馬名で出走していました。デビュー戦の800メートルのレースに2着馬に8馬身差でレコード勝ちした後、永田雅一オーナーがトキノミノルに改名しました。
「トキノ」は、永田氏が特に走る持ち馬に付ける冠名であり、デビュー前のトキノミノルはさほど期待されていなかったかも知れません。
永田雅一は当時大映の社長であり、プロ野球のオーナーでもあり、トキノミノルがダービーを勝った3ヶ月後、「羅生門」ががヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞したこともあり、まさに人生の絶頂期でした。
ダービーのレース後、馬場に出て記念写真を撮ろうとした永田氏とトキノミノル目がけて、観客が殺到し、埒が破損しました。オーナー、馬、騎手は人波のなかに巻き込まれ、口取り撮影は馬場内になだれ込んだ観客に囲まれた中で行われた史上初のことです。秋にはセントライト以来史上2頭目のクラシック三冠が確実視され、永田氏は記者たちに対し、三冠を達成できた場合、史上初のアメリカ遠征を行うことを発表しました。
しかし、レース終わって五日目ぐらいから、どうもドキノミノルは元気がなくなり、16日午後になって目が赤くなっているのが見つかり、結膜炎が疑われて治療が行われたそうです。
6月17日、松葉博士がやって来て精密検査したところ、破傷風であることが確定されました。
そしてついに6月20日に敗血症を起こし、永田オーナーなど関係者に看取られながら短い生涯を閉じました。
名馬の急死は、社会的にも大ニュースとして扱われ、読売新聞の21日の朝刊で社会面のトップで扱い、競馬が一般紙に登場することの少ない時代で珍しい扱いでした。
のち、トキノミノルは銅像が作られ、幾度のを改修工事を経ている東京競馬場にいまも設置されています。
競馬ファンの間では待ち合わせ場所としてすっかり定着されています。
豊年虫 ― 2014-09-20 09:57:56
先日、仙台市広瀬川の橋でカゲロウが大量発生するニュースを、テレビで見ました。
<http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20140918-00000009-nnn-soci>
気持ち悪い、と通行人は口にしますが、カゲロウが大発生した年は豊年になるという言い伝えがあり、信州戸倉温泉、上山田温泉辺りの地域ではカゲロウのことを「豊年虫」と呼ぶそうです。
志賀直哉に、「豊年虫」という短編があります。
以下、その引用ですが、どうやら条件が整えば、カゲロウは大発生することがあるようです。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
自動車は千曲川の長い橋にかかった。橋板がカタカタとけたたましい響を立てた。
「えらい豊年虫だぜ。恰で雪のやうだ」今まで黙つてゐた運転手が前を向いたままいった。みんな窓の外を見る。橋には二十間おき位に電柱が立つてゐ、それに電燈がついてゐた。そして此所でも無数の蜉蝣がその燈の周りに渦巻いてゐた。一つ、又一つ二三丁先まで何本かある電柱には総てその渦巻があった。
誰もゐない暗い夜、此所を先途と夢中に渦巻く虫の群を眺めるのは一種不思議な感じがした。虫は川の真中に近づくほど多かつた。そしてその電燈の下には二三寸の厚さにそれが積もってゐた。自動車の通つたあとを見ると雪と変わらぬ轍の跡が残つてゐた。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
カゲロウの成虫は体が細長く、弱弱しく、生きる時間が短いです。
中国では古くから、詩経の「曹風」に歌われています:
蜉蝣之羽 衣裳楚楚。 心之憂矣 於我歸處?
蜉蝣之翼 采採衣服。 心之憂矣 於我歸息?
蜉蝣掘閱 麻衣如雪。 心之憂矣 於我歸說?
学名はギリシャ語からで「ephemera」、すなわち「一日限りの命の虫」です。ドイツ語の「Eintagsfliegen」も、同じような意味でしょう。
カゲロウの腹の中には空気が詰まっていて、そもそも口器を動かす筋肉すら退化して、何も食べることができず、数時間、せいぜい数日で死にます。その短い時間、オスたちは狂ったように群飛し、群れに紛れ込んだメスと交尾します。
「荀子」大略篇にも「不飲不食者蜉蝣也」 とあり、東西とも古より知られている事実です。
まさに命短し、恋にうつつをぬかし、食べている暇など、あるわけないです。
いや、種類によって差があるものの、カゲロウの幼虫は川のなかに生き、石にへばりつき、淀みにひそみ、藻や腐った落ち葉を食して育ち、長いものは成虫までに三年もかかります。
ぱっと華やかに燃え尽きようにも、長い長い下積みの準備期間が必要でした。
<http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20140918-00000009-nnn-soci>
気持ち悪い、と通行人は口にしますが、カゲロウが大発生した年は豊年になるという言い伝えがあり、信州戸倉温泉、上山田温泉辺りの地域ではカゲロウのことを「豊年虫」と呼ぶそうです。
志賀直哉に、「豊年虫」という短編があります。
以下、その引用ですが、どうやら条件が整えば、カゲロウは大発生することがあるようです。
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自動車は千曲川の長い橋にかかった。橋板がカタカタとけたたましい響を立てた。
「えらい豊年虫だぜ。恰で雪のやうだ」今まで黙つてゐた運転手が前を向いたままいった。みんな窓の外を見る。橋には二十間おき位に電柱が立つてゐ、それに電燈がついてゐた。そして此所でも無数の蜉蝣がその燈の周りに渦巻いてゐた。一つ、又一つ二三丁先まで何本かある電柱には総てその渦巻があった。
誰もゐない暗い夜、此所を先途と夢中に渦巻く虫の群を眺めるのは一種不思議な感じがした。虫は川の真中に近づくほど多かつた。そしてその電燈の下には二三寸の厚さにそれが積もってゐた。自動車の通つたあとを見ると雪と変わらぬ轍の跡が残つてゐた。
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カゲロウの成虫は体が細長く、弱弱しく、生きる時間が短いです。
中国では古くから、詩経の「曹風」に歌われています:
蜉蝣之羽 衣裳楚楚。 心之憂矣 於我歸處?
蜉蝣之翼 采採衣服。 心之憂矣 於我歸息?
蜉蝣掘閱 麻衣如雪。 心之憂矣 於我歸說?
学名はギリシャ語からで「ephemera」、すなわち「一日限りの命の虫」です。ドイツ語の「Eintagsfliegen」も、同じような意味でしょう。
カゲロウの腹の中には空気が詰まっていて、そもそも口器を動かす筋肉すら退化して、何も食べることができず、数時間、せいぜい数日で死にます。その短い時間、オスたちは狂ったように群飛し、群れに紛れ込んだメスと交尾します。
「荀子」大略篇にも「不飲不食者蜉蝣也」 とあり、東西とも古より知られている事実です。
まさに命短し、恋にうつつをぬかし、食べている暇など、あるわけないです。
いや、種類によって差があるものの、カゲロウの幼虫は川のなかに生き、石にへばりつき、淀みにひそみ、藻や腐った落ち葉を食して育ち、長いものは成虫までに三年もかかります。
ぱっと華やかに燃え尽きようにも、長い長い下積みの準備期間が必要でした。
往年の名優 ― 2014-09-23 11:21:07
こちら(↓)、たまたま YouTubeで見かけた、去年に撮影されたムービースター号の映像です。
どうやら、29歳という高齢になったいまも、岩手県の湯澤ファームで、功労馬として繋養されているようで、結構なことです。
冒頭の写真のほうは、私が中山競馬場で撮影した、レース前のムービースターです。目元も涼しく、名優の雰囲気を漂わせていました。
そのレースとは1983年の中山記念、ムービースターは見事に快勝し、4つ目の重賞タイトルを手にしました。
考えてみれば、あれから二十年以上も経ちました。
ムービースター号の共同オーナーのひとり、本物のムービースターである南田洋子さんも、すでにだいぶ前に他界していますね。
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