なんちゃってアイドル論~笠森お仙の場合2013-07-12 06:19:33

 13歳の頃から家業の水茶屋「鍵屋」で茶汲み女として働くお仙は、当初から美少女の評判が高かったそうです。

 18歳になり、いよいよその人気がうなぎのぼり、お店もおかげで大繁盛になっただけでなく、錦絵や絵草紙はもちろん、お仙双六、お仙手拭といったグッズも出現しました。
 肖像権などあろうはずもない時代で、神社でお仙人形が奉納されて話題となり、お仙ちゃんをモデルにした狂言まで公開されました。明和5年から翌6年、谷中笠森稲荷門前の水茶屋のお仙をめぐり、大フィーバーが起きました。
 吉野大夫や高尾大夫といった遊郭のスターがすでに誕生していましたが、花魁でもないし、芝居をするわけでも歌を歌うわけでもない素人が、単に美少女というだけで大スターになったのは、おそらく江戸でもお仙が初めてだと言われています。

 そのうち、ライバルも登場しました。「お仙ちゃんに負けないわよ」と気勢を上げたのは、浅草観音の裏、銀杏の木の下の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋お藤です。こちらも錦絵や手拭が登場し、「なんぼ笠森お仙でも、銀杏娘にかないやしまい」という応援歌も飛び出しました。
 それでも明和6年に出版された「新板風流娘百人一首見立三十六歌仙」では、冒頭にお仙が描かれ、「大極上上吉」にトップランクされました。

 ブームはなおしばらく消えそうにないと思われましたが、明和7年の2月から、お仙を一目見ようと谷中に詰め掛けた男たちが目にしたのは、なぜか父親の五兵衛だけ、となりました。
 「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という流行語まで生まれたそうです。

 お仙が消えた理由についてさまざまな憶測が流れましたが、なんのことはなく、幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもある倉地甚左衛門に請われて嫁に行ったのです。当時、身分違いの間の婚姻は厳しかったが、そこにちゃんと抜け道があり、武士の仮親を立て、お仙は武士の娘としてお庭番の家に嫁ぎ、80歳近くまで生きたそうです。


 アイドルの寿命は、いつの世も短く、幕が閉じた後の人生は、はるかに長いものでしょうね。