競馬場のトルストイ (ほかタゴール、シェクスピア)2013-03-20 00:57:19

 前回はヘミングウェイについて書きました(http://tbbird.asablo.jp/blog/2013/03/07/6740400)が、実はヘミングウェイの同期に、トルストイがいます。
 もちろん、競馬のほうの話です。
 トルストイは2010年、ロシアの文豪レフ・トルストイが没後百周年の年に生まれ、いまJRA栗東・音無厩舎に所属している馬です。


 レオ・トルストイの名著「アンナ・カレーニナ」に、競馬場のシーンが描かれています。
 アンナが、恋人のヴロンスキーの落馬に動揺し、浮気が夫に疑われてしまう、あの有名な場面です。
 実は19世紀は、ロシアの競馬人気がもっとも頂点に達した時期で、モスクワの競馬場に上流階級やお金持ちの人々が集まっていたようです。

 そもそもロシアにはアラブ、ドン、アカールテケ(http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/10/22/1866220)などの基礎血統や、オルロフ・トロッターなどの改良種がそろい、20世紀初頭には世界の馬の三分の一をも所有していたそうです。
 そんな馬の王国だけに、サラブレッドという優れた競走種が発達したときにはいちはやく輸入していました。19世紀後半からロシア革命までの間に、英国三冠馬ガルティモアを筆頭に、多くの優れたサラブレッドが輸入され、馬産に関する伝統、技術や優れた環境を考えれば、優秀なサラブレッドがたくさん育てられて良いはずです。

 しかし、ロシアがサラブレッド競馬の国際舞台に長く登場しませんでした。
 ひとつは、ロシアではトロット競争のほうに伝統があり、人気を集めていたためだと思われます。トロットの名馬たちの名前が、革命前のロシアのスポーツ新聞に踊っていたようです。
 もうひとつは、ドン河流域の馬産地が、クリミア戦争、ロシア・トルコ戦争、ロシア革命などで、激しい戦地になり続けたせいかも知れません。

 そんななかでも、19世紀のロシア・サラブレッドの血統を現代に伝えているのは、ソビエト政権樹立後のロシアで抜群の種牡馬成績を残した、タゴールという馬です。


 馬のトルストイは、かなりの良血です。
 お父さんは、日本競馬界きっての英雄、ディープインパクトです。
 お母さんのグレースアドマイヤは重賞を勝てなかったが、府中牝馬ステークスで2着し、G1のエリザベス女王杯では6着に入っていたオープン馬です。グレースアドマイヤの母はアイルランド産のバレークイーン、未出走ですが、オークス、ヨークシャーオークス、セントレジャーを制した名牝サンプリンセスを母に持つ良血馬です。バレークイーンは日本に輸入されるや、いきなり1996年のダービーを勝ったフサイチコンコルドを出し、さらにグレースアドマイヤの後も、2009年の皐月賞を勝ったアンライバルドなどを輩出しています。
 グレースアドマイヤの子供からも、2007年の皐月賞を勝ったヴィクトリーや、2006年の天皇賞・春でディープインパクトの2着に入ったリンカーンが出ています。


 マドリードのカフェで、アーネスト・ヘミングウェイが一人の記者とこんな会話を交わしました。
 ヘミングウェイ: 君はレースを見に出かけるかい?
 記者: ええ、ちょいちょい。
 ヘミングウェイ: じゃあレーシング・フォームを読んだだろう......。ほんとの小説技術ってのはあれさ。

 このエピソードは、私が知っているだけでも、寺山修司はそのエッセイに二度引用しています。
 「レーシング・フォーム」は、言わずと知れた、百年以上の歴史を持つ、世界でもっとも著名な競馬新聞のひとつです。各レースに出走する全競走馬の豊富な情報を列記した一覧表を掲載しているのが特徴です。そこには、過去の細かい経歴だけでなく、父、母、兄弟、生まれ故郷のすべてが明記されています。
 日本の競馬専門紙の馬柱も、小さい空間に様々な情報を詰め込んでいますが、それよりさらに情報が膨大で、ぶっ厚い新聞だと思ってよいかと思います。

 「あれが、経験の集積であるのか、物語の集積であるのかを決めるのは、読者のたのしみというものだろう」
 と言ったのが、当の寺山修司です。

 ビッグデータの時代ゆえ、親や兄弟に名馬、活躍馬を持つトルストイは、いわゆる超良血馬として、必然的に多くの期待を集めています。

 しかし期待された通りに必ずしも走らないのも、競馬の世界ではよくある話です。
 トルストイはデビューしてから4回レースに出走し、うち3回が単勝一番人気に支持された(もう1回は二番人気)ものの、最高でも3着止まりで、いまのところ、高い期待に応えられていません。

 ちなみにトルストイのひとつ上の兄に、シェクスピアという馬がいましたが、デビュー戦(やはり単勝一番人気)で6着に敗れた後、2戦目のレース中の故障が原因で予後不良、亡くなったそうです。