鴨フラージュ2011-01-16 01:09:42

 小学生の冬休みが終わると、朝出社前のチャンネルはテレビ東京の「おはスタ」に戻りました。

 真面目に見ていないから、いつからかはわかりませんが、この「おはスタ」にはどうもこの頃、本来の曜日のレギュラーに関係なく、ピン芸人の小島よしおが「なぞなぞハンター」なるキャラを扮し、なぞなぞを出題するコーナーがよく出ます。
 昨日の朝などは、「物事をはっきりと話さない鳥はな~に?」のような問題だったと思います。

 答えは「カモ」でした。
 いや、曖昧な言い方をする時によく語尾に「かも」を付ける、というだけの、贔屓目に見てもあまり出来のよくないなぞなぞでした。
 しかし心に覚えがあります。この語尾に「かも」を付けるのは、何を隠そうと、僕もよく使う、かも。


 あれは競馬ブーム真っ直中の1994年頃まで遡る話です。
 当時、井崎脩五郎と須田鷹雄のふた方が教授と博士のキャラクターを扮し、対談形式で全G1レースの一週間前予想をする、という企画が「週刊読売」で連載されていました。
 軽妙なトークが人気を博したコーナーではありますが、予想の方は惨憺たるもので、皐月賞からオークスまではひとつも的中がなく、そのままナリタブライアンが断然人気だったダービーを迎えていました。

 ダービーの週の対談には、こんな展開がありました:

 須田: ここまでのまとめとしては、「2~5番人気くらいの馬の単勝がいいかも」ってことになりますね。
 井崎: 「かも」っていう文末がイカすな(笑)。
 須田: もはや我々は、断定的な物言いをできる立場ではありません(笑)。

 笑っている場合でなく、読んでいてハッと思いました。まるで正解をあえて避けるような予想をし続けた自分は、はたして断定的な物言いをできる立場にあるのでしょうか?
 深く反省し、以来、この競馬会のカモは、ますます「かも」を多用するようになりました。


 もっとも、「かも」は「疑問」だけではなく、「詠嘆」であるケースも昔から例がたくさんありました。

 式亭三馬の「浮世風呂」には、鴨子(かもこ)と鳧子(けりこ)というふたりのアマチュア女性国学者が銭湯でいろいろ論じ合う段がありますが、このふたりの名前は和歌でよく出てくる「かも」と「けり」から付けたものです。
 「かも」はこういう使い方で登場されるぐらい、典型的に古典和歌的な言葉であって、暇な人?がいて、数えると、「万葉集」には「かも」が七百回くらいも出ているらしいです。
 平安時代になって、「かも」が衰えて、「詠嘆」のほうの使い方では「かな」が取って代わりましたが、「万葉」を手本に仰ぐ近代和歌のおかげて、いつしかふたたび復活してきました。

 「監房より今しがた来し囚人はわがまへにゐてやや笑めるかも」 (斎藤茂吉)


 「磐代の岸の松が枝むすびけむ人は帰りてまた見けむかも」 (長忌寸意吉麿)
 磐代の岸の松が枝を結んだという人は、ここを帰り道にまた通って、この松をもう一度見たのだろうかしら、というわけなので、これは疑問の気持ちなんですね。

 「浦廻より漕ぎ来し船を風早み沖つ御浦にやどりするかも」 

 浦のめぐりを漕いで来たけれど強い風が吹くから、沖の方の浦に逃げて、こんなふうに宿りをしているんだなあ、とこちらは詠嘆風になっています。

 と言っても、文法の先生がすぐ「疑問」であるとか「詠嘆」であるとか、明確に区別したがりますが、意外ときれいに区別できるものではなく、不確かだなあという、疑問であり、詠嘆でもある、両方を混じったような気持ちを表す場合が結構ありそうです。
 あえて微妙なところにかけ、カモフラージュしているような気がします。