義賊の伝説その1 廖添丁2010-01-26 07:40:07

 廖添丁が亡くなったのは1909年の11月、死んでからはや1世紀が経ちました。

 その名前を知らない人がいないぐらい、台湾では廖添丁がかなり有名です。伝説中の義賊、もしくは抗日の英雄に祭り上げられることも多いですが、史実に残っている記録だけを紐解けば、凶悪な無頼漢に近い、ただの犯罪者としか見えないです。

 1902年、19歳のときに初めて窃盗の罪で逮捕。
 1904年、張某とともに強盗を働き、包丁を手に警察の拿捕から逃れる。
 1905年、別の強盗事件で逮捕される。
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 1909年、監獄から出た後、短期間のうちに強盗3件、殺人1件、警察宿舎から銃器、刀を盗むなどの犯罪を犯し、11月に死亡(26歳)。

 
 イギリスの歴史学者エリック・ボブズボウムによれば、義賊の伝統がない地域では、単なる盗賊が民衆によって理想化されることがあるそうです。ボブズボウムが例としてあげたのは、18世紀末のドイツで活動していたシンダーハーネス(本名ヨハン・ビュクラー)ですが、廖添丁もその典型だったかも知れません。
 但し、日本統治時代の台湾にあって、官憲を向こうに回しての大立ち回りや神出鬼没の逃走劇を演じたことで、現地の人々の間に、ある種の大衆的な人気ができていた可能性もあります。

 廖添丁の最期は、友人の楊某の裏切りによる実にあっけないものでしたが、結果的にそのシチュエーションがまた人々の同情を買っていたかも知れません。
 かのロビン・フッドに代表される「高貴な盗賊」の典型を、ボブズボウムは9つのイメージに整理して見せが、「同情すべき罪で悪の世界に入った。」、「権力の悪を正す。」、「豊かな者から奪い、貧しい者に与える。」などとともに、「裏切りによって死ぬ。」というイメージが、6番目の項に数えられています。
 そういう意味でも、廖添丁は義賊に「化ける」要素を持っていました。


 とは言え、アウトローの世界史における多くの義賊と同じ、廖添丁の名声が大きく膨らんだのは、後世の演出によるものだと思います。たぶんなかでも一番有名で後世に影響をもたらしたのは、「講古」という語りの名人・呉楽天による話です。
 呉楽天の語りのなか、廖添丁はもはやただのやくざではなく、香港からやってきたスリの「紅亀仔」とともに、弱きを助け、高圧的な日本警察を懲らしめる、誇り高き抗日英雄となっていました。

 以降、数々の映画、テレビ、小説、漫画で描かれ、近年はテレビゲームの主人公にもなっています。「廖添丁廟」は何箇所も建てられて、観光スポットに挙げられたりします。いまの勢いから見て、おそらくロビン・フッドと同じように、本来のモデルから離れ、廖添丁の伝奇は当分は終止符が打たれることなく、語り続けられていくのでしょう。

義賊の伝説その2 運玉義留2010-01-26 07:53:37

 呉楽天の語りよりはるかに古く、廖添丁の話を最初に劇場にあげたのは日本人だったそうです。
 大正元年(1912年)、台北の劇場「朝日座」で廖添丁を主人公に据えた演劇が上演されました。そして、大正三年には台湾伝統の「歌仔劇」も作られました。新聞で「稀代の凶賊 廖添丁の最後」の題で報じられたその死から数年も経たないうち、廖添丁は凶徒から義賊に成り変りました。
 台湾に程近い沖縄には、運玉義留(んたまぎるー)という義賊の伝説がすでにありました。関係を示す資料を見つけられていないので、これは僕のただの憶測にすぎないですが、あるいは廖添丁の劇も、最初はその台湾版として考え出されていたかも知れません。

 運玉義留の話がいつできたか正確にはわかっていないですが、少なくとも18世紀中には口頭の語りや唄があったと言われています。「沖縄演劇の魅力」(沖縄タイムス社)によると、明治20年頃には芝居の筋書きができて、先般の大戦が始まるまではずっと沖縄の人々を熱狂させるテーマでした。

 伝奇中の廖添丁には紅亀仔という相棒がいるように、運玉義留には油喰坊主(あんだくぇーぼーじゃー)」という知恵袋がコンビを組んでいます。大名やお金持ちを狙って盗みを働いて、金品を貧しい者たちに分け与える、まさにロビン・フッドばりの義賊だったわけです。

  取りたる銭金 欲しこーねらん  (盗んだ金が欲しいわけではない)
  今ぬ浮き世や 許さらん  (今のこの世が許せない)
  盗ど盗ど 呼ばれってん  (ドロボー呼ばわりされるが)
  意地え捨てんな 油喰え  (意地だけは捨てるな、油喰え)

  う侍れや 玉黄金  (お侍は玉黄金)
  百姓やれー ちりあくた  (百姓ときちゃゴミ同然)
  じんぶん勝負 負きらんさ  (知恵比べでは負けない)
  御供すんど イエー兄い  (お供するよ、ね兄貴)
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 運玉義留にはモデルが見つかっていません。当時の沖縄は「ヤマトンチュウ」(本土の人々)から厳しい経済的な収奪を受けていたので、権力に立ち向かい、貧しい人々の鬱憤をはらしてくれるヒーロー像として考え出されていたかと思われます。