【メモ】麦湯と可否茶館2009-11-17 01:16:34

 昭和6年の古い「文芸春秋」を読むと、「明治文化座談會」と題する文が掲載され、宮武外骨や石井研堂が出ていました。

 最後のところ、若者の遊び場所のひとつに、「麦湯」というのが挙げられて、なんだろうなと思って、グーグルで検索してみました。

 そうすると明治どころではなく、江戸時代からあったもので、天保に書かれた「寛天見聞記」にも「夏の夕方より、町ごとに麦湯という行灯を出だし、往来へ腰懸の涼み台をならべ、茶店を出すあり。これも近年の事にて、昔はなかりし也」と書かれています。
 麦湯の女と呼ばれる、紅粉を粧うたる14~15歳の女子が、一人で食事もなにもなく麦湯のみを売るところが、「麦湯店」というらしいです。
 江戸風俗研究家の杉浦日向子によれば、麦湯は一杯が4文ほどで、暑い夜はたくさんの人でにぎわいましたが、色気を売るところではなく、清純さが売りの店だったのです。

 冒頭に挙げた「明治文化座談會」にも、若者たちが「沢山の祝儀を出しに行った」というから、不思議と言えば不思議です。菊池寛は「まさに現在の喫茶店の前身」と言っているが、その「現在」といのは昭和5、6年頃なので、「明治文化座談會」の別の段落で、石井さんが「この節カフエーの女給といふものが、大変盛んな様子」と言っているぐらい、いまの喫茶店ともまた違うのでしょう。

 喫茶店と言えば、昭和の初めはカフェーハウスともよく書かれ、「可否茶館」というのが最初に上野黒門町にできたようです。「可否茶館」を経営していたのは長崎で支那通詞をやっていた鄭永寧という方だったそうで、まだ調べていないですが、もしかして中国出身の方かも知れません。
 「可否茶館」の名前を付けたのが、尾崎紅葉らとともに硯友社を創設した石橋思案であって、「可否」とは「カフェー」の音も取り入れたゆえんです。