佃島とその渡し船2009-05-05 22:41:17

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 情けは人のためならず。

 めぐりめぐって己が身のため......。 このように語り出されるのが、三代目三遊亭金馬の「佃祭り」です。

 佃島の住吉神社の大祭りはすごい人出、八丁堀の次郎兵衛というものが、その日最後の渡し船に乗って戻ろうとしたところ、若い女に袖を引き留められました。
 いまや佃島の船頭の女房となったその女、三年前に吾妻橋から身を投げようとしたとき、五両をめぐんで助けたのが次郎兵衛であり、命の恩人と思いがけない再会、というわけです。
 このやりとりの間に渡し船が出てしまったので、女は次郎兵衛を家まで案内し、あらためて夫婦で礼を尽くしてもてなしたところ、「大変だ、大変だ」の声がこだまします。人を乗せすぎたせいか、なんと乗り損ねたその最後の渡し船は転覆したそうです。
 事故で乗客はひとり残らず溺れて死んだというので、次郎兵衛の家も大騒ぎ。奥さんが涙の通夜をしているところで、船頭に送られて次郎兵衛が戻ってきました......

 最後に与太郎の話がついてしまうのは、落語の落語たるところですが、本来はしんみりした人情話です。このへん、円歌の門を叩く前に元々講釈師に弟子入りしていた金馬らしい話でしょうか。


 歌川広重の「名所江戸百景」に「永代橋佃しま」というがあります。(http://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/item/hiroshige157.htm
 永代橋から南の眺めで、白魚の漁り火が見えます。白魚を捕るのは佃島の船の特権、11月から3月まで行われる江戸の風物詩だそうです。
 手元に杉浦日向子の「江戸アルキ帖」(新潮文庫)がありますが、「橋上、立ち止まって、水の上の漁り火に見とれている人が、欄干に点々と影となってよりかかっている。」となっています。


 大田南畝の「半日閑話」に、明和六年二月四日に佃島渡し船転覆の記述があり、死者三十余人だったそうです。
 東京オリンピックの頃に橋ができて、ようやく休止符が打たれましたが、それまで佃島には三百年以上もの、長い渡し船の歴史がありました。

 「佃島ふたり書房」で第108回直木賞を取った出久根達郎が、その江戸時の佃島の渡し守を題材にして書いたのが、上の写真の「波のり舟の ~佃島渡波風秘帖(つくだのわたしいざこざひかえ)」(文春文庫)です。

 この小説に書かれているのは佃島であって、作者が創作したユートピアでもあります。主人公である渡し守の正太は、島の平穏が乱されるのを好まず、島と向こう岸との行ったり来たりするだけの日常に満足するような平凡な男です。

 「毎日ひとつ所」をこいている渡し守ですが、普通の人の生活だって大差はないかも知れません。


 出久根達郎は中卒して上京し、月島の古書店で丁稚奉公していました。多感な年頃、落ち込むことがあると、職場近くの佃島を訪れていたそうです。
 小説だけでなく、エッセイでも「佃島の娘」、「佃島の猫」などが「人さまの迷惑」に収録されたり、佃島の住吉神社について綴った「住吉さま」、「縁結びの神」は「思い出そっくり」に収録されています。
 それぐらい作者にとって思いで深い、心の中の原風景だったのでしょう。

 「佃島には三軒の佃煮屋さんがある。その一軒の『天安』で、海老やハゼを百グラムずつ求めて、それを肴にカップ酒を飲んでいた。」
 「調子に乗って飲み過ぎて、藤棚下のベンチで酔いつぶれた。目がさめたら、私の回りに十匹も二十匹もの猫が集まっていて、ひどく驚いた。私の肴を食い散らかしていたのである。」(「佃島の猫」)

 この「天安」は、いまも変わらず営業しているようです。Googleでサーチすると、元祖佃煮の文字が踊るホームページが出てきます(http://www.tenyasu.jp/)。いかにも歴史がありそうな建物に、懐かしい古の風景が見えた気がします。

 出久根達郎は、佃島出身の奥さんと結婚し、佃島で古本屋を開いた、という話を書いています。
 「私は毎朝、渡船を利用して神田の古書市場に仕入れに行った。妻は店を開き帳場に座った。冒頭に述べた如く佃島は文人墨客の行楽地であるから、古本商売でもなんとか二人口を養うぐらいの実入りはあった。まして相思相愛の若夫婦に、少し位の貧乏がなんであろう。」(佃島の娘」)


 「波のり舟の ~佃島渡波風秘帖」の「切口上」に書かれていますが、佃島の渡し守の名は、安藤鶴夫の文章では代々「時(とき)」と呼ばれているそうです。
 理由は記されていませんが、決まった時間に船を出すことで時を刻むか、振り子のように行ったり来たりしながらも変わらぬ時間を演出するか、そのどちらかと思いました。

 ちなみに、出久根達郎はこの安藤鶴夫を「通人通語」にも取り上げていて、「人の情のなつかしく、我が心の『おやじ』」というタイトルでした。
 その安藤鶴夫は、しかしなぜか冒頭の「佃祭り」の三遊亭金馬とはそりが合わないようです。
 安鶴版「わが落語鑑賞」に文楽、三木助、可楽はいても、金馬のキの字も出てこないようです。三遊亭金馬は落語評論家として絶大的な力を持つ安藤鶴夫に徹底的に無視され、また、桂文楽が思い出話などを見ると、金馬のほうも安藤をことのほか嫌っていたようです。

コメント

_ 月の光 ― 2009-05-06 20:24:26

次郎兵衛さんのその後はどうなったのでしょう?
五両の話に逆上して、お通夜のやり直しになったのか、男気に惚れ直してハッピーエンドなのか。
ほんとに「・・・ためならず」なのか気になります。

_ why ― 2009-05-06 21:13:24

情けは人のためならず・・・か。胸がちくちくするわ。フフ。

今(未だに?今さら?今頃?トホホ)読んでいる『漱石を売る』には、出久根達郎さん夫妻のエピソードが随所綴られています。

なんでも漱石の肉筆を売ろうという噂を聞きつけて、柄の悪い成金が古本屋を訪ねてきたそうです。「ぜひ譲ってくれ」、「いや、お前なんかに売るもんか」の押し問答が始まって、ひと悶着。
騒ぎを聞いて、「どうしたんです?」と奥さんが走ってきました。
ことの一部始終を話すと、奥さんは
「奥にとって返し塩壺をかかえてきた。それを見ると客が、わあ、と叫んで逃げだした。・・・妻がわなわなと唇をふるわした。そして店の軒下に派手に塩花をまいたあ」とか。
奥さま、女豪傑だなと感心しました。

_ T.Fujimoto ― 2009-05-08 00:25:37

月の光さん、ふ、ふ、ここでも一波乱を起こして欲しいかも知れませんが、あとにサゲ担当の与太郎が控えているので、次郎兵衛の段では、悔やみ客ともどもが話を聞いて大喜びするところで一段落です。

奉公先で5両の金をなくして身投げした女は美人、という設定ではありますが、奥さんは会っていないので、妬くところまでは至らない、ということでしょう (^^;)

_ T.Fujimoto ― 2009-05-08 00:42:39

whyさん、仰るとおりです。
塩をまくぞ、と先に切り出した旦那のほうはたぶん口先だけで、直ちに行動に移してしまうのは奥さまのほうでした。

記事に写した佃島ふたり書房の話はどうやらフィクションです。本当の奥さまはハッピ姿で佃祭の神輿をかついた、やはり女豪傑風の方だったそうです。

_ sharon ― 2009-05-09 08:42:36

>「人の情のなつかしく、我が心の『おやじ』」
この記事に唯一分かった言葉です。(惭愧)

_ T.Fujimoto ― 2009-05-09 23:41:56

sharonさん、目眩しながら書いたものですから、わかりにくいところは許してください。
安藤鶴夫は、別名「感動するお」、些細なことにも怒り、泣き、笑い、感動するそうな、下町の、庶民の「おやじ」だったそうです。

_ tianshu ― 2009-05-12 12:54:08

お久しぶりです。

 fujimotoさんの文章を読むたびに、自分の日本語レベルに自信がなくなります。それでも、いつも最後まで読んでしまいます。
 上の河豚の話もそうですが、短い文章で「古今東西」をうまくまとめ、しかも簡潔に紹介してくれるのは、fujimotoさんの文章の魅力だと思います。
 説明するときの言葉は分かりやすく、引用するところは「点睛」の役になり、あまり読書時間のない私には、とても勉強になりました。杉浦日向子の書いたすてきな言葉は、中国語の小説の中にも同じような描写がありますが、日本語が母国語じゃない人にとって、なかなかできないものですね。
 
 「天安」というところが本当にあれば、一度行ってみないなと思っています。つぼみさんにアドバイスしてみんなで行きましょうか。(笑)

_ T.Fujimoto ― 2009-05-13 00:03:55

tianshuさん、大した推敲もせずにだらだらと綴った駄文に、過分なお褒めの言葉、ありがとうございます。
「邂逅中国語」と「心霊家園(月のたより)」を拝見して、日本語と中国語を自在に操るtianshuさんの詩と文に、僕こそいつも感心しきりです。

佃煮の「天安」は、天保8年(1837年)の創業で、ただいまも佃島にて操業中です。
出久根達郎が言及した「三軒の佃煮屋さん」、ほかの2つは「佃源田中屋」と「丸久」だと推測します。

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