命と自我の意識2009-04-11 12:21:23

 人間が生まれてすぐ、誰でも同じように熟練に楽器を弾けていたら、もしかして、我々はいつまで経っても音楽を理解できないかも知れません。
 しかし、学習してはじめて覚える事柄がたくさんある一方、この「私」が意識的に学ばなくても、なぜかできてしまうことがあります。

 例えば、自立神経系に属する臓器たちの、互いに連携しながら協調する複雑な動きなど。幸いに僕はあまり心配せずとも、心臓はちゃんと律動的な収縮をして血液を循環させ、リンパ小節はちゃんとリンパ球の増生を行ってくれます。
 必要であれば、できる限りの力こぶを作ることができるし、思い切り深呼吸を指令することもできます。しかし普段歩くときから筋肉一本一本の動きを考えているふしはなく、数秒に一度、呼吸を繰り返し促す必要もなさそうです。

 ここ数十年、自立神経系器官等の動作も誘導できそうだと、研究を通じて知られてきました。詳しくは調べていないですが、期待する働きができたタイミングに快楽神経を刺激して奨励すれば、どんどん期待通りの動きが増えていくらしいです。
 この方法により、腎臓の尿を形成する速度を変えたり、血圧を上げたり下げたりするのが、いくらかはできるようになった話を、随分前に聞いたことがあります。

 もっとたくさんのことを、我々の脳がコントロールできるようになるかも知れません。

 いや、できるようになりたいならば、ですね。
 僕にはその自信がないです。
 司令官としては頑張っていきたいですが、これ以上細かいことまでやらなければならないと思うと、できる自信もなければ、正直、くたびれてしまいます。

 人を会社を例えるなら、この大脳の「私」は、社長であると自負している一方、会社そのものでないのも確かです。

 ましては、人間に限らず、ほとんどの生物は明らかに集合体です。
 体のなかには多くの微生物が存在し、別々の遺伝子でそれぞれの生命の営みを行っていますが、人間として生きていくなか、決して欠かせないのもたくさんあります。
 そう考えると、いや、「私」はちゃんと統制できる社長かどうかさえも疑わしいです。


 さて、自分と自分でない区分は、我々に芽生えている「自己意識」のよるものですが、「ゆえにわれあり」という自我の意識は、たぶん大脳が考え出したものです。
 その範疇はだいぶ曖昧なもののようです。
 分子レベルで考えると、今日の僕の汗は、いつかの古の人の涙だったかも知れません。
 ますます困ったな、少なくともまずはちゃんと社長と会社の違いを区別しないとわけがわからんくなりそうです。

 人類の歴史上、自分の自我と他人の自我をあまり区別できなかった時代があったと、人類学の学者が言っています。
 その時代の人間は、他人ばかりでなく、石や草木にも魂を感じていたかも知れません。

 「意識は他者の行動を予測するために生まれた」というのは、「社会的知性説」の仮説です。短絡ですが、生存競争に勝つための手段だと捉えることもできます。

 あまり環境に左右されず、ほとんどの幼児はある段階から自我が生まれて、他人との区別を確立します。この事実は、そういう働きを司る神経回路が形成される時期があることを示唆しています。


 このようにして生まれてきた「意識」は、まあ、どうなんでしょうか、僕は、なんだか「波」のようなものだと感じます。
 いや、命そのものが海の上に浮かぶ波、意識はある「しきい値」を越えた波の白いしぶきですか。別々の波とも、近いや遠いのはあるとして、底はそれぞれ繋がっているものです。

 言うまでもなく、波を構成する海水は、いつまでもその波に属するものではありません。
 なんらかの拍子で、意識の水平線より上に浮かんで、やがて岸に砕けて散ってしまいます。
 海の水は何ひとつ増えたり減ったりすることはないです。