芸術家の魂2008-03-03 23:24:36

 石丸寛先生が大腸ガンで亡くなったのは1998年の3月、もうすぐ10年になります。

 指揮者としてはもちろん、テレビ番組「題名のない音楽会」などで親しまれ、地方の音楽文化の育成に力を尽くしたことも知られています。

 そのうえ、絵画についても、造詣が深いです。
 というより、音楽の道か絵の道かの選択に悩んだあげく、大学の美術科に進学し、すぐに史上最年少で国展に入選したほどでした。


 さらに、あまり知られていないかも知れませんが、実に洗練され、内容の深いエッセイを書かれています。
 「それゆけ!オーケストラ 」(中公文庫)が、その作品集です。

 1984年に出版された古い本で、僕が読んだのはいまから16年前、1992年の、これも3月でした。
 当時のぼくは、図書館から借りた本でも、特に気に入った文章があったら、ノートに写していました。
 1992年の3月のノートを手にとってみると、前記エッセイ集からの写しが3つも残り、おそらく、数としては最高記録です。

 奇を衒うわけでなく、派手に笑わせることもないですが、淡々と綴るその話の内容を、僕はいたく感動しました。


 そのうち、一番短いものを、ノートから再録します。

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 何事でも、完成されたとたんにそれは1つの典型になる。そして心ある芸術家は典型を嫌って、ただちに次の放浪へ向かうのだ。こうして芸術家は生きている限り、純真なる放浪を続けるのである。典型に安息できるのは職人だけであろう。
 練習ということも、その意味の本質は上に書いたこと尽きる。つまり演奏家には本質的に典型を嫌うタイプと典型に近づこうとする職人タイプとがある。ある人は「最後の練習では、完成度として95%に止めておきたい。残りの5%は本番の情熱のために取っておきたい」と言う。一見なかなかうがった話だが、他の人はこうも言う「練習と本番とが一つの線の延長上に入った瞬間から演奏は堕落しているのだ。練習と本番とは全く新鮮に別のものでなければならない」と。芥川比呂志だったと思うが、「役者は台本を完全に覚えて完全に忘れなければならない」と言った。ある指揮者がいよいよ明日が本番という最後の稽古を終えたときに「私が稽古した全ての者を忘れ去ってください。」と言ったのを、私は感激をもって聞いたことがあった。
 芸術家は真に自由な魂を愛する。あらゆるものに束縛されない内なる私を探し求める。自分の心が観念の虜となること、典型がやがて類型の道につながることを、なによりも怖れるのだ。
-----( 「それゆけ!オーケストラ 」より)