桃花源記からの随想(2)2007-06-30 00:25:09

 厄よけは重要ではありましょうが、どちらかと言えば、まだ消極的な力ではあります。
 桃の実は、後世になるとさらに積極的な霊力が付与されたりします。例えば「漢武故事」のなかの「西王母娘娘」の「仙桃」など。

 もちろん、こうも霊力が強いと、普通どこにもある桃では具合が悪く、天上界であったり、崑崙、蓬莱など伝説上の山、島であったりしますが、特別な場所の特別な桃でなければなりません。


 南朝劉宋の頃、劉義慶の「幽明録」にこのような話があります:

 後漢初、劉晨と阮肇のふたりが薬草を採るために天台山に登り、道に迷ってしまいました。
 そのうち、ある峰の上に桃の木を見つけて、その果実を口にすると、どういうわけか、ふたりの仙女が迎えに来て、結局、劉晨と阮肇はその山のなかで結婚しました。
 半年後、山を下りてみれば、凡世はすでに数百年もすぎてしまったそうです。

 ここで、桃は遭難者の空腹を満たす一般的な効能以上に、劉晨らふたりはこの桃を食べたからこそ仙女たちの世界に踏み入れることが出来、彼女たちの夫になる資格を得たわけです。
 そのとき、祝いに来た仙女の仲間たちも、4,5個の桃を持ってきたというが、神仙世界の標識であると同時に、元々桃の実が持つ「結婚」の意味をも含んでいるかも知れません。


 実はこの話、金庸の「天龍八部」にも軽くですが、言及しています。

 金庸小説と言えば、「桃花島主」黄薬師はいかにも浮世離れした、仙人みたいな人です。「桃谷六仙」はまったくコミカルな人物ですが、六仙という名前通り、あれはあれで仙人の仲間に違いないでしょう。
 一例に過ぎないですが、桃に神秘的な霊力がイメージされやすいのは、かなり一般的に浸透していると言えます。


 陶淵明の「桃花源記」は、恐らく劉晨、阮肇の故事にインスパイアされた作品だと思われます。
 但し、桃花源に住む人々はすでに仙人でなくなり、尋ねた漁師も仙術に導かれたわけではなくなったようです。桃の林が道しるべになったかも知れませんが、漁師の人に桃の実を食べさせることなく、ただ「落英繽紛」でその美しさを表したのにすぎません。

 詩人たちが愛した桃の花の美的イメージが、ここでは顔を出したようです。


 川に落ちた桃が、どうやって日本に流れて、桃太郎を誕生させたかは、さすがにこれは別の話ですな。